スノードームの祈り
天継 理恵
第1話 プロローグ
雪。
雪が降っている。
紺碧の丸い夜空から、音もなく白い雪が降りてくる。
見上げた頬に触れた冬の欠片は、失いかけた体温に溶け、小さな雫になって伝う。その冷たさが、静かに心を凍らせていく。
空に逃げていた視線を、地上へと戻す。
そこには、かつて愛した人がいた。
よく笑う人だった。活発で、積極的で、奔放な人だった。
でも、もう動かない。降り積もった柔らかな雪の上で、まるで夢でも見るような瞳のまま、彼は静かに事切れている。
うっすらと開いている目は、薄く濁っている。ライトアップされた雪の反射光が、それを照らして見せつける。
目が合った。凍ったまつ毛の向こうで、わずかに開かれた瞳が、まるでまだ何かを諦めきれていないようにこちらを見つめている。
罪を訴えられているようだった。どうして、と問いかけてくるようだった。
その瞳に苦しくなり、怯える指で胸元をぎゅっと掴む。繰り返す浅い息が、白く煙る。
恐る恐る手を伸ばし、瞼を下ろす。まだ柔らかい感触になぜか安心して、けれどすぐに思い直した。
殺したくせに。
命を奪っておいて、罪の視線から逃れようなんて——浅ましすぎる。
強く自分を責める。目の前の現実と向き合えと咎める。そうしてようやく、彼のために懺悔の手を合わせた。
強張った腕が震えている。雪に埋もれた彼を引き上げたせいか、それとも恐怖のせいか、頭の中は未だぐちゃぐちゃで考えられなかった。
ふと、辺りが明るくなる。
光源を追ってもう一度空を仰げば、いつのまにか止んでいた雪に気がついた。厚い雲は流れ去り、真円の月が顔を覗かせている。
それはまるで、ステージから見上げるスポットライトのようで。
そう感じた瞬間、積もりに積もった罪悪感が、大きな決意となって雪崩れた。
やり遂げなければならないことがある。それが彼への唯一の贖罪となり、弔いになるはず。
ふと、冷たい風が頬を撫でた。その心地に、いつか触れた彼の指先を思い出す。
心を決め、彼のそばにしゃがみ込む。そしてまだ震える腕で雪をかき集め、懸命に彼を覆う。
サラサラ、サラサラと。柔らかな布団に包むように。優しく包み込むように。
雪が全てを隠す。罪を、彼を、この想いを。
何もかもを埋め終え、静かに立ち上がり背後を振り返る。
大きなガラス窓の向こう。そこにあるのは、夢にまで見たコンサートホール。いつか目指していた晴れ舞台。けれど今は、ただの夢の残骸。
明かりのない暗い世界にぽつりと佇むグランドピアノの姿は、孤独で寂しそうだ。それが彼と出逢う前の自分と重なり、思い出が溢れ出す。
初めて声をかけられた日。
熱い想いを伝えられた日。
一緒に歩いて行こうと決めた日。
鮮明に蘇り、そして思う。どうして、こんなことになってしまったのだろうと。
もう一度だけ彼へと振り返る。そこにもう彼の姿はない。丸く覆われた雪の墓下で、夢の残骸と共に永遠の眠りについている。
罪と後悔を連れ立ち、彼へと背を向ける。真夜中を渡り、最後に目指すべき日へと歩き出す。
整えられた敷石の上を辿りながらも、心は叫ぶ。
——ひとりでなんて、居たくなかった。
きっとそれが、この罪の始まり。
***
富良野の冬は厳しい。
ただでさえ北海道という北国にあるのに、盆地地帯という土地柄がより寒さを厳しくしている。ホテルを一歩出るだけでそこは極寒の地だ。鼻呼吸すれば鼻毛も凍る。
ホテル周辺に広がる、暗く寒々しい雪原と白樺並木を眺めながら、俺は愛飲している煙草・ピースをおもむろに咥える。かじかむ手でほぼオイルの無い百円ライターのホイールを回すが、火花が散るばかりで一向に火が着かない。横着せずに新しいライターを買ってくるべきだったか。
諦めきれず、何度も親指で回す。するとなけなしの火が点き、俺はようやく煙にありつけた。
深く肺まで吸い込んで、真冬の曇り夜空へと吹き出す。迎えた至福の瞬間に、しかしふと小言が飛んでくる。
「ボス。ここは喫煙スペースじゃないですよ」
生真面目な声。顔を見なくても誰だかわかる。部下の
「そう固いこと言うなよ。最近はあっちこっち禁煙禁煙で、こっちは死活問題なんだ」
振り返れば、真っ直ぐな瞳が俺を待ち構えていた。短い黒髪は今日もきっちり七三だ。しっかりワックスで固められてて、風にもなびかない。
「ホテルの中に喫煙所があるでしょう。法を遵守すべき立場の人間なんですから、ルールはしっかり守ってください」
——喫煙指導員かよ。物怖じもせず正論をぶつけてくる態度に、マフラーのストライプ柄まで説教くさく見えてくる。スラリとしたロングコートのシルエットといい、上等な革手袋といい、あまりに隙がなさすぎやしないか。
……若いのに、遊びってもんがねぇなぁ。
「はいはい。スミマセンね」
おざなりな返事をしてもう一度深く吸い込めば、「ボス!」とまた呼び咎められた。
どこから影響受けたのかは知らんが、この令和の時代に上司をボス呼びするなんて変わった若人だ。そもそも直属の上司に対して、あまりにフランク過ぎやしないか?まぁ、面白いから許しているけど。
俺はコートのポケットから携帯灰皿を取り出し、未練たらたらのまま煙草をもみ消した。最後にため息と一緒に煙を吐き出すと、観念して夏目
に向き合う。
「なんでわざわざこんな寒い場所で吸ってるんですか。今の気温、マイナス10度ですよ」
「喫煙所ってあんまり好きじゃねぇんだよ。ほら、あそこって収容所みたいだろ?」
「収容所って……でもまぁ、当たらずとも遠からずですけど」
「だろ?一服したいだけなのに、肩身狭くてやってらんねぇのよ。もうね、気分は犯罪者。それも無期懲役」
「犯罪者よりかは難民じゃないですか?今の時代なら」
言えてるな、と納得する。今や愛煙家は毒ガス製造機扱いだ。人権剥奪レベルで疎まれて、与えられた微々たるスペースでのみ生かされている。
昔はもっと大手を振っていられたのになぁ。古き良き時代を思い返し、思わず遠い目をしてしまう。
「いい加減禁煙したらどうですか?ただでさえカップ麺やら菓子パンばっかりの不健康な食生活なんですから、そのうち身体壊しますよ」
「……陸くんさぁ、ネクタイちゃんと結べとかシャツがよれてるとか、いっつも俺に注意ばっかしてるよね。なに?俺の母親かなんかなの?」
「だらしないのが気になるだけです。ていうかボスこそ、親戚の叔父さんみたいに名前呼ぶのやめて下さいよ」
ああ言えばこう言う。夏目なりの心配なんだろうが、もう少し可愛げってもんがないのかね。
「大体ボスは警部で班長なんですから、ちゃんとしてもらわないと班員の僕たちの評価に関わるんですよ。それでなくてもボスが自由すぎるせいで、ウチの班は一課長に目をつけられてるのに」
「大丈夫大丈夫。あの人は事なかれ主義だから、検挙率さえ保っておけば文句つけてこねぇって。なんせ数字大好きオバケだから」
「……その数字を上げてるのは確かにボスですけど、不興を買ってるのもボスですからね。この前も調査報告書の提出期限5日も破ったせいで、一課長が一日イライラしてましたから」
「あー、アレね。いやぁ、出したと思ってたんだけどなぁ〜」
「その言い訳、もう100回は聞いてます」
100回は大げさだろ。……と思ったものの、振り返ってみれば俺の言い訳辞典の常套句だった。あながち間違いではないかもしれない。
「まぁお説教はこれくらいにしといて。そんなことより、事件のことだろ?」
舵を切れば、夏目がキリッと表情を変えた。そしてポケットから支給用スマートフォンを取り出すと、班員である雛形から送られてきたデータを開いた。
「雛形さんから金融機関の照会記録が届きました。……ボスの予想通りで間違いなさそうです」
「ん。ま、そうなるわな。で?今回のマル害の方は?」
「柊木さんが大学時代の線を辿ってくれました。かなり人脈の広い人物だったようで、大学時代に関わった複数の人間に話を持ちかけていたようです」
「有名大学の経済学部出身だっけか。その後大手コンサル企業に勤めてたんだろ?エリートだったんだろうな」
「そうですね。そのまま勤め続けていたら、こんな事にはならなかったんでしょうけど」
同情的な、しかし皮肉めいたセリフを淡々と付け足す。夏目に哀れみはない。それは多分、この事件の裏を把握しているからだろう。
「積み重ねた努力と華々しい成果をマルっと捨てて、夢に尽くすってのはなかなか出来るもんじゃないよな。本人的に後悔はないんじゃないの」
「それはそうですけど、結果は結果、罪は罪です」
「……まぁな。そこは俺も否定はしないよ」
——罪は罪。それは大前提であり、確固たる線引きだ。
罪は裁かれなければいけない。その裁きのために俺たち刑事は罪を証明し、明るみに引き摺り出す。
——たとえ、そこにどんな事情があろうとも。
「巡り合わせってのは本当にどうしようもねぇな。幸運も不運も、どっちもある」
「それは全ての巡り合わせに言えることですよ。人生には必ず大なり小なりの巡り合わせが訪れます。幸も不幸も善し悪しも、どう受け取るか、どうしていくかは本人次第です」
「陸くんはシビアだねぇ。リアリストというか」
夏目の精神の健全さたるや。そのブレの無さに恐れ入る。その正義感の強さは間違いなく警察向きだが、いささか余裕や柔軟さに欠けるとも思う。それが思考や視野を狭めてる原因でもあるが——まぁ、悪いことじゃない。若さゆえの信念もあるだろうし。
「で、あのカメラについては?」
「ボスの読み通りでした。指示されたラウンジのカメラ映像は確認済みです。これで、アリバイ証言は崩れました」
「状況証拠は、一旦これで揃い踏みだな。……今、俺たちに出来るのはここまでか。鑑識に回してる物証の確定についてはすぐにとはいかないだろうが……でも、きっといらんだろ」
「……おそらく。隠蔽の意思はないでしょうし」
ふと、夏目が背後を振り返る。その視線を追えば、広大な雪原の中、煌びやかに佇むホテルに辿り着く。
富良野リゾートホテル・ルミエールヴェール。
今回の殺人事件の舞台であり——夢の舞台になるはずだった場所。
——あの、幻想的なコンサートホールを思い浮かべる。
光、ガラス、ピアノ。
積もり積もった、輝く雪の景色。
その間際で、彼女は今、一人でじっと待っているのだろうか。
——すべてを終える、その時を。
「……陸。お前さんは、音楽とかピアノって詳しいのか?」
「いえ、全く。音楽の授業で触れた程度です」
陸の視線が帰ってくる。しかし、その瞳は雪に埋もれた地に落ちる。
「……でも」
吐息が白く散る。俺の問いかけに、夏目は深く思考する。
「ゲネプロでの彼女のピアノは……聴いていると、なんだか苦しくなりました」
沈むように呟いて、けれど、すぐに前を向く。
「音楽の才能や技術というものがどういうものなのかはわかりません。でも、心が動いたという点では、彼女のピアノは優れているんじゃないでしょうか」
「……なるほど。お前さんにしては、珍しく感傷的だな」
からかわれたとでも思ったのか、夏目が俺の反応に眉を寄せる。
「そういうボスの方こそどう思ったんですか。彼女の演奏を聴いて」
「ん?俺か?そうだなぁ……」
——耳の奥に残った旋律。
縋りつくようなピアノの音色に、遠い昔の思い出が過ぎる。
「……久しぶりに、やかましい顔を見たくなったかな」
「何ですか、それ」
「内緒」
言葉を濁せば、一際凍える風が吹きつけ、ぶるりと身が震えた。
さすがにもう限界だ。顔も耳も手も足も、もう感覚がなくなってきてる。剥き出しの肌がチクチク痛いったらありゃしない。
「さっさと中に戻るか。このまま突っ立ってたら凍死しそうだ」
「だったら外で煙草なんて吸わないでくださいよ……」
ぶつくさと言う夏目に聞こえないふりをして、俺は「寒い寒い」と身を縮めながらロビーを目指す。夏目はわざとらしいデカいため息を吐きながらも、やっぱ寒いんだろう。足早に肩を並べてついてくる。
コンサートが始まるまで、まだ時間はある。それまで最後の裏付けや各所への連携は夏目に押し付けて、俺はラウンジであったかいコーヒーでも飲んでいようか。
そしてそれが終わったら、レストランで腹ごしらえをしとくのも悪くない。せっかくこんな良いホテルに来たんだ。たまには奮発して美味いものを食ってみるのもいいだろう。
ヘソを曲げるだろう夏目の機嫌は俺の奢りで何とかして、ついでに、コンサートが終わった後の話でもしようか。
この事件の犯人——
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