8-3 スターリンVS公安課長

 警察署の取調室は、どこまでも無機質だった。薄汚れた白壁、金属製のテーブル、硬い椅子。天井の蛍光灯が冷たく照らし、まるで生きた人間の存在を拒むような空間だった。


 スターリンは椅子に浅く腰をかけていた。腕組みをし、前に置かれた分厚い資料の束には目もくれず、壁の一点をじっと見つめている。その姿勢には緊張というより、退屈に近い何かが滲んでいた。目元には影が差していたが、その奥には不気味なほどの自信と余裕が浮かんでいた。


 ドアの外から足音が近づく。重々しく、怒りに満ちたリズム。次の瞬間、取調室のドアが勢いよく開いた。


「おい!」


 現れたのは田崎社長だった。いつものスーツは乱れ、額には汗。怒りに満ちた眼差しで、スターリンを射抜くように睨みつけていた。


「お前、一体何を考えてるんだ……! 会社に工作かけやがって!」


 彼はテーブルに資料を叩きつけると、拳を握ったまま立ちはだかった。


 スターリンはその怒りを見上げるように見つめたが、ふと飽きたように目線を逸らした。


「わしは関与していない。無実だ」


 嘘が得意な人間は、表面になにも出ない。スターリンもそうだった。下手な芝居も演技もない。自然体だ。


「そっちはまだいい。問題はこの大事な時期に勝手な行動しやがったことだ! 事務所にどれだけの迷惑がかかってると思ってる!?」


 田崎は激しく憤るが、熱くなればなるほど、スターリンは冷気をおびる。


「わしは……ただ真実を語っているに過ぎない」


 その言葉は低く、そしてひどく落ち着いていた。


「真実だと? お前が何を語ったか、わかってんのか!? 『自分は本物のスターリンだ』だと? 正気か!?」


 社長の怒声が部屋を満たす。


 だが、スターリンは微動だにしない。まるで一人芝居の舞台に立っているような静けさだった。警察官たちはその様子を監視モニター越しに見つめ、取調室内の記録を黙々と記録している。


 そこに、さらに重苦しい存在感をまとった人物が現れた。


 公安の課長だった。


 黒いスーツ、赤いネクタイ、鋭い眼光。部屋に足を踏み入れるだけで、空気が一段と冷たく変わる。


「お前は一体何者なんだ?」


 公安課長の低く抑えられた声には、怒りと、そして疑念がにじんでいた。


「ふざけるのはここまでだ。いまここで、すべてを白状しろ。お前が何者で、なぜこんな馬鹿げたことをしているのか……いますぐにだ」


 沈黙。

 時計の秒針だけが、空虚な時間を刻んでいた。


 だがそのとき、スターリンがふっと小さく笑った。


「……ならば、趣向を変えてみようか。警察の皆さんにも、少しは楽しんで貰わないとな」


 公安課長が眉をひそめた。

 スターリンはゆっくりと身を起こし、深く一度息を吐いた。


「警察官のおまわりさん、よく聞いてくれ。俺は昔、国家の書記長だったんだ。ある日、オフィスでコーヒーを飲んでいたら、部下が『それは非合法だ』っていい出したんだよ」


 警察官たちは顔を見合わせる。


「俺はいった、『これはソビエトの宝だ』ってな。そしたらこう返された。『なら申請書を書け』。いやいや、俺が申請書を出す時代かって話だよな」


 ロシアの小話だろうか、非常にわかりにくい。居合わせた警察官は黙り込むしかなかった。ひとりの若い刑事を除いて。


 彼は口を歪め、くすっと笑いを洩らした。続いて、もうひとり。意味不明なのに、笑ってしまう。取調室には小さな笑いの渦が広がっていった。


「笑うのやめろ! 取り調べ中だぞ!」


 公安課長が声を荒げた。


「お前は一体だれなんだ!? 本物だって話は本当なのか……!?」


 だがスターリンは落ち着いたままだった。口元にかすかな笑みを浮かべ、語るように、いや、舞台で語る芸人のようにいった。


「ここにきた瞬間、述べたとおり。わしは……ソビエト連邦の書記長だった男だ」


 公安課長は言葉を失った。


 スターリンは構わず続ける。


「だが、このやりとり自体がネタなのだよ。現実と虚構の境界は、最初から曖昧なんだ。警察だろうが芸人だろうが、結局は舞台の上で役を演じているだけ。違うか?」


 突然、何かが弾けた音がした。スターリンが立ち上がっていた。彼は壁にかけられたテレビを指差す。


「チャンネルを変えてくれ。いま、ちょうど爆笑王の決勝が始まってるはずだ」


 署員が戸惑いながらリモコンを手に取り、テレビを操作する。画面が切り替わると、まさに舞台の中央に立つヒトラーの姿が映し出された。


 舞台上で彼は、持ち前の存在感と鋭利な目つきを武器に、観客を沸かせていた。カメラがパンすると、観客席の期待に満ちた空気が映る。


 スターリンはその画面を見つめながら、ぼそりとつぶやいた。


「見ろ。あれこそが戦場だ。この取り調べは茶番に過ぎない」


 取調室の誰もが、テレビに釘付けになった。


 ひとりの刑事が、上司と思しき相手にいった。


「こんな場所で漫才を見ていいんですか?」

「相方が出れば、こいつが冗談をやめるかもしれん。なんなら被疑者を芋づる式に……」


 スターリンは微笑んだ。


「笑いってのは、どんな状況でも必要なのだよ。牢屋の中だろうが、戦場だろうが、人間が人間である限り、それを求める」


 公安課長の表情は厳しいままだったが、彼もテレビから目を離せずにいた。


 スターリンはゆっくりと席に戻り、深く腰を落ち着けた。その顔にはもはや取り調べを受ける被疑者の影はなかった。


 そこにいたのは、舞台の袖で出番を待つ役者だった。マイクスタンドを見つめ、いまにも駆け出しそう。


「……わしらの戦いは終わっていない。笑いも、歴史も、他人任せにはできんのだ」


 テレビに映るヒトラーの顔が、どこか祈りのように見えた。


 そして「あれは本物かねえ?」とだれかが笑った。


 その笑いが、この国の仕組みを変えようとしているように見せた。

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