第七章

7-1 爆笑王、準決勝

 缶チューハイを開けた瞬間、プシュという音が、狭い楽屋に響いた。


 爆笑王・準決勝の当日。


 俺はパイプ椅子に座ったまま、缶をゆっくり傾けていた。


 楽屋の空気は、とても静かだった。騒がしくも、賑やかでもない。まるで、だれかの心音を聞き取りそうな沈黙。


 俺の手元には、何もない。


 台本も、メモ帳も、アイパッドもない。あるのは、コンビニで買った缶チューハイ一本と、壁に寄りかかるようにだらしなく崩れた俺の姿勢だけだった。


 粛清されたプロデューサーとしては、まあまあの末路だろう。


 ヒトラーが「せめて楽屋には入れてやってくれ」と頼み込んでくれたおかげで、こうして席だけは与えられている。だが、あくまで居させてもらっているにすぎない。仕事に関わることは、すべて禁じられている。ネタの修正、構成の相談、スタッフとの打ち合わせ……俺が担ってきた領域は、いまや立入禁止エリアだ。


 ふたりは、鏡の前でなにやら振り付けの確認をしていた。


 腕を斜めに振り下ろし、腰を深く落とし、静止したかと思えばするりと滑るように次の動きへ。


 言葉はなく、息だけで合図し、全身の筋肉を一点に集めては、また解く。まるで、見えない糸で結ばれているようだった。


 ……なんの練習だ? 暗黒舞踏か?


 以前、動画サイトで舞踏家のドキュメンタリーを見た記憶がある。無音のなかで、呼吸すらパフォーマンスの一部になっていた。あれに近い。


「セリフも動きも、完璧に一致せねばならぬ」

「では、コサック式膝落としを再度」


 ヒトラーとスターリンがぽつぽつと交わすその言葉には、冗談の成分は一滴もなかった。


 彼らの視線は、すでに舞台の上にあった。あのライトの熱、歓声の圧、そして笑いの間合い……全部が頭の中に展開されていて、この狭い楽屋は、彼らにとってすでにリハーサルだった。


 その真剣さが、かえって俺を孤独にした。


 チューハイの炭酸が喉を通っていく。だけど、味はしなかった。


 ——退屈だ。


 そう思った瞬間、心のどこかのネジがゆるんだ。

 重力に逆らえなくなったまぶたが、ずるりと落ちる。

 背中を壁に預けたまま、気づけば、眠りの底へと落ちていった。


*


 ……いつの間にか、静かになっていた。


 目を開けると、ふたりがハイタッチを交わしていた。汗に濡れた額、小さく頷き合う姿。


 なにか大きな手応えを得た。そんな雰囲気が、確かにあった。


 けれど、俺にはその中身が一切、見えてこなかった。


 ただ、ガラスの向こうから見ているような感覚だけが、ひどくリアルだった。


 ——もう、俺の出番はないのかもしれない。


 そんな言葉が、自然と脳裏に浮かぶ。


 そのとき、楽屋の扉がノックされた。スタッフが、手早く弁当をふたつだけ置いて去っていく。


 俺は立ち上がることもできず、ただ、それを見ていた。


 ああ、そうか。俺の分は、ないんだ。


 徹底的に「外されて」いる。そう思った瞬間、胃の辺りがきゅっと痛んだ。


 炭酸のせいじゃない。これは確実に内臓のほうだ。実感のある痛み。


 ヒトラーが弁当を開けて、笑う。


「エビフライが、うまいぞ!」


 スターリンはもう一方の弁当を手に取ると、俺の方をまっすぐに見ていった。


「晴彦、食え」

「え?」

「わしはまだ腹が減っておらん」


 そう言って、スターリンはそっと、弁当を俺の前に差し出した。


 開けてみると、ちゃんとした弁当だった。


 エビフライ、コロッケ、唐揚げ、玉子焼き、ひじき、漬物。色合いまで考えられた盛り付け。コンビニのそれとは明らかに違う。


 腹が減っていた俺は、遠慮せず箸を伸ばした。


 冷えた白米が、やけに甘くて、しみた。


「茶を淹れてやる」


 スターリンは無言でポットを手に取り、紙コップに湯を注いで、俺に差し出してくれた。


「……サンキュ」


 俺がコロッケを口に運んだ瞬間、ヒトラーがまた叫んだ。


「ホクホクしておる! 芋の処理が絶妙!」


 思わず、吹き出しそうになった。

 なんだよ、こいつら。ふざけてんのか、本気なのか。


 でも、楽屋の空気が、一気にあたたかくなったのがわかった。さっきまでの張り詰めた空気が、まるで冬の窓を開けて春風が入り込んできたように、やわらいでいく。


 俺は気づけば、ぽつりとつぶやいていた。


「……俺、ここにいていいのかな」


 スターリンが、少しだけ表情を動かして、俺をまっすぐ見た。

 そしていった。


「お前は、最前列で笑え」


 その言葉が、胸の真ん中にすっと入り込んできた。


 プロデューサーでも、演出家でも、スタッフでもない。——客。


 それがいまの、俺の居場所なんだと。


 スターリンは、そういってくれたのだ。


 ヒトラーが、ミックスフライを豪快に頬張る。


「うむ、威風堂々たるミックス感だ!」


 こらえきれずに、笑ってしまった。

 涙がにじみそうだったけれど、それをごまかすように、俺も弁当に向かって叫んだ。


「この玉子焼き、甘っ! 砂糖どれだけ入ってんだよ!」

「よい味覚である。日本の砂糖文化は、世界に誇るべき資源だ」


 ヒトラーが俺の弁当に箸を突っ込んできて、はしゃぐ。


「ほらほら、から揚げ冷めるぞ!」


 笑い声が、楽屋の壁に反響する。


 ——いいんだ、きっと。

 いまは、これで。


 パイプ椅子に深く腰を下ろして、俺は熱いお茶をひとくちすする。


 まもなく、決戦の舞台が幕を開ける。

 その始まりの音が、扉の向こうから、かすかに聞こえてきた気がした。

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