5-2 元相方、解散の理由
たばこを吸うつもりなんて、全然なかった。
爆笑王の打ち合わせの終わった帰り道、あまりにも頭が疲れていた。電車の乗り方を覚えたヒトラーとスターリンは先に帰り、俺だけ街角にいる。テレビ局幹部のバカでかい声がずっと耳に残ってる気がして、まっすぐ帰る気になれなかった。
とはいえ行くあてもなく、最寄りの駅まで、ふらふらと歩いていた。肩には重たいリュック。中には着替えと台本と、使いかけのネタ帳。腕時計は午後八時をまわっていたけど、身体がまったく眠気を感じてくれなかった。脳だけが過活動を続けていた。
駅の入り口を前にして、ふと視界の端に喫煙所が入った。
いつもなら素通りする場所だった。健康志向というより、単純に煙が苦手で。学生のころ、先輩芸人に喫煙所へ呼び出されて説教された記憶もある。あの狭い空間に、楽しい思い出なんてなかった。
けど──今日は、そこに目が吸い込まれた。
灰皿に囲まれた透明の壁。その中に、ぽつんと男が一人、目に入ったのだ。街灯の光に背を向けて、スーツの上着を脱ぎかけ、シャツの裾が少し出ていた。ふくよかな腹回りが、生活感を漂わせていた。
一瞬、だれかわからなかった。でも、次の瞬間には、名前が喉までせり上がっていた。
あの輪郭、笑ったときの目尻の皺。何百回も舞台裏で見てきた顔だ。
「……おお、久しぶり」
声をかけると、相手は驚いたように顔を上げ、そしてすぐ、懐かしい笑みに変わった。
「晴彦か……マジかよ」
佐山だった。
元相方。俺がまだ漫才師だった頃、二人で組んでいたコンビ「シンメトリー」の、もう一人。
三年ぶりだった。いや、もっとかもしれない。
佐山は、すっかり雰囲気が変わっていた。前より太ったせいか、スーツが少しきつそうだった。手に下げたキーケースには、小さな子どもの写真が挟まれている。生活の匂いが、たばこの煙に混じって漂っていた。
「なんか……バズってるな、あのふたり」
「ああ、ヒトラーとスターリンのこと?」
「名前、強すぎだろ」
ふたりで少し笑った。煙が流れて、視界が少しだけ滲んだ。
「お前がプロデュースしてんのか?」
「まあ、正確にはマネージャーって感じかな。ネタも書いてるけど……実質、お世話係だ」
「矢部社長から聞いたわ。いまでも芸人やってんのな、お前」
意外なフリがきて、ちょっとだけ胸が痛んだ。「開店休業」なんて言葉が浮かぶ。けれど、それを口に出すのは躊躇われた。俺は自分から「負け」を認めたくはない。
たばこの火が短くなってきたころ、佐山がふいに口を開いた。
「なあ、俺たち……なんで解散したんだっけ?」
あまりにもストレートな問いだった。ずっと心のどこかで避けていた話題。その重みが、夜の静けさに不自然に響いた。
「……俺が、『勝ち』にこだわりすぎたからだよ」
自分でも驚くほど冷静にいえた。ずっといえなかった言葉。ずっといいたかった言葉でもある。
「お前は、もっと純粋に『笑い』をやりたかったと思う。賞レースとか、ウケ狙いとかじゃなくてさ。観客を、びっくりさせたり、ニヤッとさせたり、そういうやつを」
佐山は、ふうっと長く煙を吐いた。吐き出すというより、何かを手放すような仕草だった。
「まあ……そうだったかもな」
そして、苦笑するように笑った。あの頃の彼には絶対できなかった表情だった。
灰皿にたばこを押しつけたあと、佐山はつぶやいた。
「でもさ。お前、まだ『負けてない』気がする。そう見えるわ」
胸に、何かがずしりと落ちた。
負けてない? 俺が……?
ネットでは独裁ナイツは話題の中心だった。トレンドに何度も名前が上がり、映像は何十万回も再生されている。田崎社長は上機嫌で、移籍が待ち遠しい様子だった。
でも、それはスターリンとヒトラーの話だ。
俺は、映っていない。どこにも。
「お前はそういうけど、諦めてないだけだ。……俺、各駅停車みたいなもんだよ」
自然に言葉が出た。考えて出したわけじゃない。心の奥底にずっと沈んでいた実感が、声になっただけだ。
「独裁ナイツは特急列車だ。次の駅、次の賞、次の話題。止まらず、突っ走ってく。俺は……いちいち止まりながら、遠くの景色を見てる感じだ」
佐山は「ふうん」といい、目を細め、手に持っていたキーケースをくるくると指先でまわした。
「……でも、各駅のほうが近くの景色がよく見えるかもな」
「皮肉か?」
「いや。違うよ」
まっすぐな目だった。確かに、あのときの彼じゃなかった。過去に囚われずに、目の前の生活を受け入れている大人の顔だった。
「ところで今年の爆笑王、めっちゃ白熱してるじゃん。あのヘルコップがついにエントリーした。独裁ナイツじゃ勝負にならないんじゃないか?」
急に話題が変わったが、佐山の指摘は正しかった。元芸人だけに、業界が見えている。人気と実力を兼ね備えたヘルコップが賞をとる。それはほぼ、既定路線に見えていた。
ふと、駅のほうから電車の到着を知らせる音がした。出発まで十分程度待つだろうが、時間はあまりない。
佐山が目線を戻し、ネクタイを緩める。
「じゃあ、そろそろ行くわ」
「ああ、お疲れ」
「飯でも食ってくの?」
「うん、腹が減った」
改札へ向かって歩いていく後ろ姿を、しばらく見送った。かつて、あの背中をずっと追いかけていた頃があった。でもいまは、ただ見送る側だった。
カバンの中で、ネタ帳の感触がした。角が折れた、あの古びた大学ノート。
俺にはまだ、笑わせたい相手がいる。
たばこの匂いだけが、薄くコートに染みついている。負けてない。そういい聞かせる。
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