4-3 今さら、何者?
この夜は、なぜこうも暗かったんだろう。
天気は曇りだったか、それとも雨が降っていたか。そんなことさえ曖昧だ。だが、確かに、部屋の空気は重かった。湿り気のある静けさ。時計の秒針が壁に跳ね返る音だけが、やたら鮮明に響いていた。
ヒトラーとスターリンは、風呂に入っていた。隣の浴室からは、湯のはねる音と、小気味よい歌声が洩れてくる。スターリンのくぐもったロシア民謡と、ヒトラーのオペラまがいの裏声が、風呂の蒸気の中で交錯していた。
「お湯というのは、階級の平等を象徴する!」
「温熱は我が国民の健康に資する!」
ふざけているのか、真剣なのか、判別のつかない声色だった。
俺は、こたつにずっぷりと身体を沈め、使い古したネタ帳を開いていた。カバーは擦り切れ、ページの端は折れている。押し入れの奥や、本棚の影に差し込まれていたそれを、なんとなく引っ張り出してきた。
《おっさんがランチパックで花粉症をこじらせる》
《本当は猫が話していた》
《電車内で育てられた男》
タイトルだけで笑わせようとするような、短く尖ったネタたち。かつての俺は、これらを舞台で披露し、どこかでウケることを夢見ていた。
それなりに手応えのあるネタだったはずだ。だけど、いまペンを持って続きを書こうとしても、なぜか手が動かない。アイデアは浮かばないし、浮かんでも文字にする気力がついてこない。
そっと冒頭のページに戻ってみる。そこには「笑わせよう」という必死な気持ちが、ボールペンの筆圧の濃淡にまで滲み出ていた。雑で勢いのあるメモ、書き直されたフレーズ、笑いの間を探る赤ペンの書き込み。全部が、全部、俺の汗と夢だった。
けど――
あいつらは違う。
スターリンも、ヒトラーも、「笑わせよう」とすら思っていない。どこまでも自然体だ。けれど、笑いが起こる。しかも、本気の、腹を抱える笑いだ。
悔しいというのとも、少し違う。
ただただ、心底、悲しかった。
この部屋だって、もう俺の空気じゃない。
昔は、ここで深夜に一人でネタを作って、ラジオを聴きながら寝落ちしていた。だけどいまは、スターリンの帽子が置かれ、ヒトラーの読んでる時代錯誤の政治書が積まれている。ほかにも用途不明の本が多数。
さっきまでスターリンが座っていたソファは、まだほんのり温かくて――
「……俺の場所、いま、あいつらが座ってんだよな」
ぽつんと洩らした言葉が、すぐに自分の耳に跳ね返ってくる。そのあまりに当たり前な事実が、なぜか胸を締めつけた。
やつらがすごいのはわかってる。
バズって、世間も認めて、番組にも呼ばれて、いまじゃ憧れられる側になった。
それでも、「自分がいた場所に、いまは他人がいる」という現実が、こんなにも堪えるとは思っていなかった。取り残されたような、薄くなっていく自分の存在。まるで、壁紙の裏側に消えた落書きみたいだ。
こたつの上に置きっぱなしだった封筒に、自然と目がいった。
さっき田崎社長から手渡された、契約書類。
あらためて開くと、「住民票の写し」を始め、必要書類がびっしり書かれている。細かく、煩雑で、でも確かに現実的な書類たち。
だが――
やつらに、戸籍なんて、あるのか?
ヒトラーとスターリン。見た目は人間。言葉も達者。冗談をいえば笑いもする。でも、だからといって、彼らが「現代日本に戸籍を持つ存在」かと聞かれたら、答えに詰まる。
そもそも、本当にこの世の存在なんだろうか?
「移民扱いとかにすればいいのか……?」
気づけばスマホを手にしていた。ネットで調べる。いまさら、そんな初歩的なことを? と思いながらも、不安の芯がどうしても消えない。
けれど、検索ワードの入力で指が止まった。
《移民 戸籍》
《住民票 外国人》
《パスポート 偽造》
まるで、何かタブーに触れようとしているような気がした。画面をスクロールする指が、やけに怖い。
外国人支援のサイトや匿名掲示板の書き込みが次々に目に入る。アングラチャットも利用した。見てはならない文字たちが目に飛び込んでくる。
犯罪性が高い。というか、犯罪そのものだ。あいつらは何も持っていない。そのこと自体が、彼らの異常性を示している。
法に触れている連中を家に匿っている事実に、いまさら思いを馳せる。だが、それを突破する方法もわかっちまった。
やつらは本当に、何者なんだ?
テレビの電源の切り方が分からなかったりするほどポンコツで、コンビニでの会計に戸惑ったり、ファミレスの呼び鈴を爆破装置だと思ったりするような連中。
なにげなくスルーしていたが、生まれた時代が違うなら、納得がいく。いや、納得感しかない。
《転生 実在の人物》
荒唐無稽と思いながら、べつの検索サイトを使ってみた。面白いことに、今度は転生小説の類がわらわら出てくる。それが何を意味するかは一目瞭然だ。
——人間じゃない。少なくともこの世の人間とは違う。まるで、物語から抜け出してきたような存在。
俺の周囲で起こっている光景。それがどこまで現実なんだ?
気づけば、こたつの中で、自分の膝をぼんやり見つめていた。目の前にある毛布のしわ、床の染み。俺の場所だったはずのこの部屋で、俺は静かに問いを反芻する。
――先に進んでいいのか。それとも立ち止まるべきか。
検索ページをそっと閉じた音が、遠くに感じられた。俺は「外へ」足を踏み出そうとしている。
けれど、それがやつらのためなら。俺自身、「その先」が見たいとさえ思っちまう。
「おう、晴彦。風呂空いたぞ」
ヒトラーにいわれて、こたつから抜け出す。スターリンがドライヤーを使う音。その生活臭が、偽物に感じられる。
——本当に何もんなんだよ……?
答えはどこかにあるはずだった。しかしそれを知ったところで、現実が変わるとは到底思えなかった。
この船はもう走り出している。
止まるには速すぎるほどのスピードで。
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