首を洗って待て②
「これ……王子、なんか……?」
笑那の疑問はもっともで、こちらが瑠樺だと特定できる情報が一切ない。それでも、この場で、頸がなく、乾ききっていない鮮血に濡れた制服を着せられている身体の持ち主はひとりしかいない。
普段の格好は確かに違えども、その持ち主が示すところは明らかだった。それでも疑問を口にしたのは、この無残な肢体を見て、現実を受け止められなくなったからだろう。さすがの笑那もこれには辟易しているようで、ごくりと唾を飲み込む音が
「そうよ……そうなのよ……。私も信じたくはなかった。でも、王子様は、王子様でなくて……王子様は、王子様であるべきなのに……!」
たとえ振り向いてくれなくとも存在してくれるだけでいい。エレナは最初そう思っていた。恋して、愛して、『瑠樺は王子である』という偶像を必死に追い求めすぎてしまったのだ。
「だから……殺したんですか……っ!?」
光純はその言葉をようやく絞り出し、憎むようにエレナを見据える。拒絶と軽蔑がない交ぜになった感情が自分を支配するのが分かった。
「待って。待って……待ちなさい! 私は殺してない! 殺してなんかない!!」
この期に及んでまた違った方向で弁明をする教師を見て、光純は呆れた。
「まだそんなことを――!」
「本当よ! 王子様がスカートなんて履かないの。そんな恰好見つかったら可哀そうでしょ!? 王子様は王子様なんだから! だから、頭と身体を切り離しただけ!」
支離滅裂ながらも、殺害に関しては一向に罪を認めない。髪を振り乱し、涙も枯れた酷い顔で叫ぶ。
「私が見つけたときには、もう息をしていなかったのよ!!」
「そんな……、そんなの、自分が殺したのを、認めたくないからじゃ――。え……?」
光純もつられて混乱する。どういうことだ。エレナが犯人。これで事件は丸く収まるはずだった。だが彼女は殺人に対しては否定的だ。頸を切ったことは認めているのに、直接手を下したことを認めないのは不自然だった。
「観念せぇや!」
「本当よ! 私は、殺してない!!」
思考を巡らす光純の代わりに、今度は笑那がまくしたてる。誰が何と言おうとエレナはその言葉一点張りで証言を変えようとしない。
普段は履かないスカート。胡桃が聞いたという『離れられない人』。いったい誰だ?
「誰か、まだ、いるの……?」
まだ、解決していない。
少なくとも瑠樺がその日、スカートを履いて過ごしていた事実がある。どうにもひっかかる。生徒たちは制服のタイプもその時々により自由だ。実際、その日の気分でどちらかを着て過ごす生徒も多くはないがいる。
けれど、本当にその気分と言うだけで、『王子』であった瑠樺がスカートを履くだろうか。誰かのために、もしくは誰かのせいで、瑠樺はその行動をしたのだ。何かあったに違いない。
「光純……?」
ぼそりと呟いたはずなのに、隣に居る笑那には聞こえていたようだ。嫌な汗をかきながら、怪訝そうにこちらに向き直っていた。友の顔を見ると、高ぶっていた血の気がさっと引いた。
――落ち着け。落ち着け、光純。
自分で自分にそう言い聞かせて、客観的な視点から流れを捉える。
「先生。私はまだ、先生が本当に本当のことを話しているかは分かりません。けれど――」
許すことはできない。瑠樺を好いていたとかではなく、ひとりの人として。エレナの証言通り殺害を行っていたのではないにしても、決して見過ごせる行動ではない。
しかし落ち着け。ここで自分が石を投げるべきではない。司法が適切に裁いてくれる。だから、と光純は浅く息を吸い、長く吐いてから、早鐘を打つ鼓動を安定させるように努めた。
「そこまで言うなら聞かせてください。あの夜あったことを」
すでに足は踏み入れてしまっている。この事件を真相に導くことが、光純の――いや光純と笑那の使命だ。
一昨日、エレナは柚季たち生徒とミサに出席。翡翠組の担任教師はその日当直だったのだが、急な休暇で責任を果たせない。副担任でミサにも出席するならと、その役目はエレナに引き継がれた。教師陣の中でも知らない人がいるようなので生徒ならなおさらである。
エレナは教会の鍵を閉めた後、無駄に広い校内を清掃し始めた。平日は生徒や用務員がカバーしている場所でも、一日で現状が変化してしまう場合もある。基本はそこまでないのだが、やはり見回りは必要なようで昼食を摂った後のんびりと学院の周りから廻り始めた。
練習を終えた演劇部の生徒たちの、中庭から響く声を遠くで聴く。人がいた気配はそのくらいで、その後まばらに帰るのをチラチラ確認したのは覚えていた。
今度はバレーボール部が午前中の遠征試合を終えて入れ替わりで、夕刻前ごろに体育館に流れ込んでくる。この時点で残りの仕事は半分ほど。日誌をつけ、しばらく休憩をする。
日が沈み始めたのを見て、懐中電灯を片手に教室やの戸締り確認へ。本来は電気を点けて確認するのだが、電球が切れている万が一の可能性を考え携帯をする決まりとなっていた。だがこの日、このアイテムに感謝することになるとは思ってもみなかった。
エレナも最初は教室の電気を点けて戸締りを確認していた。けれど、件の中庭が見える二階のとある部屋の窓から、憧れの人を見つけたのだ。ベンチに腰掛け、静かに眠る鳳 瑠樺であった。
珍しい姿を見てしまった、とほのかな興奮。自分のような関係のない者が触れてはいけないのでは、と一瞬の逡巡。しかし外は薄暗く、いくら夏で日が長いとはいえ、このままではすぐに夜の帳が降りてきてしまう。
しばらく様子を見ていたが一向に目を覚ます気配もなく、誰かが起こしに来ることもなかった。恐る恐る窓を少し開けてひっそりと呼ぶ。普段名前を呼ぶのも控えているが、このときばかりはしょうがない。
「おう……鳳、さん?」
だが二階からでは、震える小声では思うように届かない。幾らか気温の落ち着いた風が瑠樺の髪を撫でるだけで、その他の反応はなかった。仕方なく、多少浮かれながらも階段を下りていく。
一階渡り廊下の横には中庭に面した引き戸があり、誰でも自由に出入りできるようになっていた。お飾りでも園芸部の顧問をしているので、王子が中庭で昼寝をしていると思うと嬉しいと同時に畏れ多くも感じる。
「……鳳さん?」
けれど、階下の中庭には見慣れない膝があった。プリーツスカートからすらりと伸びた長い脚が眩しい。本能的に瑠樺ではないと思った。だって王子はスカートを履かないから。だから誰かが瑠樺を起こしに来たのか、もしくはすでに瑠樺は席を外していて別の生徒がベンチを占領したのか。
そのどちらでもいいのだが、夜遅くまで残っている生徒は帰さなければいけない。バレー部の練習を抜け出して休憩している可能性はあるにしても、施錠もあるので追い出しておかないと。
そう思ってエレナは歩を進める。中庭には照明がないので懐中電灯を点け、一人の女子生徒に向かっていった。足元を光が照らし、白く長い指を、胸元を。順々に薄オレンジの機械的な光が昇って行き、顔まで到達して、エレナは懐中電灯を手元から滑らせた。
「おうっ……、王子様!?」
違うと思っていた人物が急に現れ、驚愕を隠し切れない。勢いでいつもの呼び名を口にする。起こしたかとも思ったが、瑠樺はただ静かに眠っていた。胸の高鳴りを感じながらも、エレナは瑠樺の傍による。緊張から震える手で懐中電灯を拾い上げ、肩にそっと触れた。
ここまで近づいたのは初めてだ。百合の薫りに混じって、薄いが爽やかな香水の匂いがする。陶器のような白く滑らかな肌。まるで人形かと思うくらいの整った顔。ぴったりと閉じた長い睫毛。
その全てに触れてみたいけれど、いまは肩を揺らすのが限界だった。指を出しては引っ込め、引っ込めては出しを繰り返し、おっかなびっくり瑠樺を起こそうとする。
「でもどうして王子様は、女の子の制服なんて着ているのかしら……?」
数分程度経ってから、ようやく少しずつ落ち着いてきたエレナの脳は、今度は疑問で支配される。この学院の制服は本来、すべからく女子用ではあるのだが。女子高の王子がいる関係で、スカートタイプを女子用だと認識している者もいた。それゆえか、瑠樺もそれに合わせてパンツタイプを常に着用していたはずだ。
入学当初からのファンであったエレナには分かる。彼女が演劇部に入部する前から、入学式の時点でもスカート姿を見たことがない。中等部は別の部活動をしていたとのことなので、高等部では演劇部に入部して王子になることを決めていたふうな振る舞いにも感じられた。きっと神様が瑠樺に最高に輝ける居場所を用意してくれたのだ、とそのように思うほど完璧なタイミングだった。
以前の王子が怪我のため急にその座が空き、完璧な容姿、人格から瑠樺が押し上げられる形でその場に立った。謙遜はあれど自虐はしないので、そのすっきりした性格さえふさわしく感じた。
「ひゃっ、お、おう、王子様!?」
そのようなことを考えていると、突然瑠樺がエレナの胸に頭を預けてくる。いけない、これでは自分のうるさいほど鳴っている心臓の音がばれてしまう。それにこの暑さと緊張で汗ばんでいるので、不快な思いをさせてしまうかもしれない。いくら眠っているからといって、学院の王子が一般教師の胸に飛び込んできていいはずがない。
急いでエレナは瑠樺の両肩をしっかと掴み、引き剥がす。そのとき、ようやく違和を感じた。ぐったりと脱力する瑠樺。一向に目を覚まさない。いくら疲れているといっても、ここまで身体を預けて人は眠れるのだろうか。それに外だ。女子校内でも、外での居眠りは危険だろう。夏の気温もある。
「お」エレナの目から、涙がこぼれた。「王子様……?」
その呼ぶ声にもう反応することはない。行き場を失った言葉は、地面に落ちて消えた。
血の気が引く。外傷はない。どうして、どうして、どうして――?
その疑問だけしかすでに頭にはない。全部の恋心を忘れて、エレナは絶望する。
どうして――。どうして『自分の王子様』が命を落とさなければいけなかったのか。犯人は誰だ。演劇部か、バレー部か。それとも暑さのせいか。いや、自分が夕方の見回りに行った最初のときには見ていなかったはずだ。だって己の想い人を見過ごすはずもない。だとしたらその後は暑さだって和らいでおり、自然の摂理のせいではなさそうだった。
――殺したのか、王子様を?
自身の身体から、さらに熱が引くのが分かる。寒くて震えがした。だのにどうしてか涙は熱く、止めることもできなかった。
「いけない。いけないわ」
一刻も早く犯人を見つけたいと思った。けれど、このままここに瑠樺を置いていたら、女子生徒の制服を着ている変態だと思われてしまう。それではいけない。
王子様はスカートは履かない。履いてはいけない。理想の王子様であり続けなければいけない。
「そうよ。身体と頭がくっついているから、いけないのよ」
エレナは咄嗟にそう思った。瑠樺をゆっくり横に寝かせて、急いで立ち上がる。中庭には鍵をかけ、誰にも見つからないようにした。倉庫から鉈を探し回って、そのころにはすでに闇が空を覆っており、静かに動けば誰にも咎められることなく事を進められた。途中、大和と出くわしたが、懐中電灯を点けこちらを逆光にしてしまえば顔が見えることもない。それに万が一気付かれても見回りをしていたとの証言が取れるなら、とあえて手を振った。こそこそしていると逆に怪しく見えてしまう。
それが功を奏してか、大和は怪しくも思わず手を振り返し、そして去っていった。ほっと一息つくのもつかの間、懐中電灯を消し、鉈を片手に再度中庭の鍵を開ける。そして。
とんでもないことをした。瑠樺の頸がごとりを落ちて、自分はなんてことをしてしまったのだと我に返った。溢れ出る血から、もう元には戻らないことを悟った。それより以前に命を落としているので、結局は何をしても瑠樺が戻って来ることはないのだが。それでも、良くないことをしたと今頃になって気付いた。通報しよう。でも、待って。これでは自分が殺したと思われてもしょうがない。どうしよう、どうしよう。
しばらくして激しい雨が降り始め、瑠樺の血を洗い流し始める。とりあえず転がったままでは可哀そうだと頭を百合の花壇の中へ。そのときにハンカチを敷いて、ひときわ柔らかそうな土の上へ置いてやった。
そうしてしばらく考えて、全身ずぶぬれになってからエレナは自身の着ていた服を瑠樺の頭があった部分に巻き、血が落ちないようにして丁寧に教会まで運んだ。順路は中庭を出て渡り廊下を走り、正面玄関を出て学院を外周して向かった。遠回りだが痕跡を残さないのであればそれが一番いいと感じたのだ。
ようやく教会まで着き、棺を開けて身体を安置する。そこまでしてどっと疲れたが、早く帰らなければ見つかってしまう。肩で息をして、慌てて学院に戻り鍵を返せばそれでいいと思った矢先だ。自分が付けたであろう雨水の足跡を踏んで滑り、足首を痛めてしまった。あってはならない痕跡だと近くにあった雑巾で廊下をさっと拭き、職員室へ鍵を返して帰宅。校舎と正門の鍵は、教師一人一人に配られているもので、この夜誰も怪しい人物を見なかったと証言すれば何もおかしなこともないと思ったのだった。
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