第6話 海底の宮殿


 目指した路地に飛び込んで、いくらか進んで振り返る。そろそろ亀次郎も私を追って通りを渡りはじめているかもしれない。そう思ったのに、見えた彼の姿は予想以上に近かった。


「うそ」


 もう電車通りを渡り終えかけている。速すぎて怖い。そういえばさっき盗っ人を追いかけたときも速かったんだ。なにが亀よ、駿馬じゃない。

 視線を前に戻し、より急いだけど、こんなの絶対すぐに追いつかれる。ああ、こんなに長く走るのはいつぶりだろう?


 路地をひとつ曲がっただろうか。道が急に細くなったのだけはわかった。

 息が切れる、苦しい。


「待て!」


 力強い大きな手に二の腕を掴まれた。振り返らなくてもわかる、亀次郎しかいない。


「ついてこないで!」


 風呂敷包みで亀次郎の胸を殴りながら抵抗した。柔らかなものしか包んでいないから攻撃にならない。やっぱり本を入れておけば良かった。家出には身を守る武器も必要だなんて、和子さんも文枝さんも言っていなかったのに。


「落ち着けって!」


 と、もう片方の腕をも掴んで私の動きを封じた亀次郎に、正面から顔を覗き込まれた。大きな声で言われた言葉が、混乱した感情を押さえる手みたいに、波立つ気持ちを半ば無理やり落ち着けた。


 私と亀次郎の荒い呼吸音がやたら大きく聞こえる。速く走れても息は切れるのね。


「周りをよく見ろ!」


 周り?


 路地に入ったのよ、さっきの豆腐屋や蕎麦屋が並んだみたいな。


「あ……」


 落ち着いた目に映った路地は、さっき通った道とは違った。ひと気がなくて、紙屑や塵が落ちていて、妙にでこぼこした悪路。視線を上向ければ、通りには火の消えた提灯が並んで下がっていた。夜には綺麗に光っていただろう提灯は、朝の陽の光の下ではただ見窄らしいだけ。先の方にお店はあったけど閉まっていて、二階の窓から顔を出して煙管を燻らせている女のひとがひとりいた。乱れた日本髪。昔は鮮やかだったのだろう色褪せた着物がしどけなく落ちて、裸の肩が露わ。


「こ、こ、こんなところに花街は」


 ないはずよ。二階の女性の色香にくらくらしながらなんとか言葉を絞り出していたら、掴まれていた腕を引かれ、元来た大通りへと引きずって連れ戻された。


「銘酒屋も知らないのか。お嬢さんじゃなくおひいさまだな」


 亀次郎の声にはからかう色はなく、ただ呆れた様子で、それがなんだか腹立たしかった。


「知らないわ。あなたは亀の癖に随分と人間の風俗をご存知ね」


 通りに戻ったところで男の手を振り解いて睨みつけると、やっと男の顔に楽しそうな薄い笑みが浮かんだ。顎を撫でて眉を上げ、上からこっちを見下ろして。からかう準備をしているみたい。失礼だわ。


「その顔。恩人への態度じゃないわよ亀次郎。それじゃ、さよなら」

「待てって」


 男を通りに残して行こうとしたのに、ひょい、と横に動いた亀次郎に行く手を塞がれた。不良みたい。


「ちょっと!」

「怒鳴ったのは悪かった。心配したんだ、折角助けてやったってのにあんな通りに飛び込んで行くんだからな」


 あんな、と言いながら顎で後ろを示される。雑な態度をとられた苛立ちを隠さず亀次郎を下から睨むと、彼は私を和ませるように、両手を胸の辺りまで上げてひらひら揺らしてみせてきた。


「もう触らない、だからどこに行こうとしてるのかだけでも教えてくれ」


 ここで言葉を一度切った亀次郎は、ふと顔からからかいの色を消し、目に真摯な光を宿した。そして、


「あんた、餓鬼に捕まった亀くらい途方に暮れて見える。恩人を助けたいんだ、頼むこの通り」


 そう言うと亀次郎は、両腕を体に沿わせ腰を曲げ、頭を下げた。頭頂部を見せる深い謝罪に、驚くと同時に溜飲が下がる思いもする。


「なんだあ、あれ」

「やだちょっと」


 立派な成人男性が女学生に謝っている姿は朝の街では目立つみたい。好奇の視線がいくつか飛んできている。そうよしかもここは、なんとかって、ちょっと怪しげなお店のある通りの入り口。


「と、とにかく向こうに行くわよ」


 上着の二の腕のあたりを掴んで引っ張ると、亀次郎は黙ってついてきた。何歩か足を進めてもなにも言わない。もう一度どこへ行くのか聞いてくれたら答えてあげてもいいのに。


「き、桔梗通りよ」


 人の流れに乗って並んで歩きながら、仕方なく自分から口にした。


「ん? なんだって?」

「桔梗通り! 桔梗通りの珈琲茶館に行くの、市電に乗ってよ。桔梗通りも市電も、お父さまに禁じられているから。和子さんも文枝さんも行ってるのに」

「珈琲茶館。そこはまとも・・・な店なのか? あのなお嬢さん、世の中にはそのー、色々な業態の……」


 歯切れの悪い態度に、亀次郎がなにを言わんとしているのか、すぐにわかった。馬鹿にされたものね。ふん、と鼻から息を出して顎を反らせる。


「東彩楼はいかがわしげなカフェーとは違いますから。とても素敵なお店なのよ。以前に馬車で前を通ったの。モダンで、じゃずが流れているんですってよ。亀次郎あなたじゃずを知ってて?」

「ジャズ? ああ知ってる。その様子じゃあんたは知らないのか」


 また、亀次郎の“知らないのか”だ。


「亀なのに博識でいらっしゃるのね。水底にあるという宮殿の主は外国の音楽にお詳しいの?」


 精一杯の嫌みを込めた台詞だったのに、返ってきたのは潜めた低い笑い声だった。こっそり視線を動かし彼を盗み見ると、目を細め楽しそうに笑っていた。優しい顔。


「海には色んな国の船が浮かんでるんでね。ジャズにブルース、タンゴ。なんでも聞こえてくる。宮殿は一晩中賑やかさ」

「ぶるうす」


 タンゴっていうのは前に文枝さんから聞いた覚えがある。ダンスホールで大人たちが踊るんだとか。ぶるうすははじめて耳にする言葉。


「ぽかんとしてないで聴いてみりゃいい。伯爵家なら蓄音機くらいあるだろ?」

「そりゃあるわよ、あるけど、うちはクラシックばかり。弟にバイオリンの才があるとわかってからは尚更。流れているのはグターにバルドー、そういうのよ」


 綺麗だけれどちょっと退屈。たまには違うのが聴きたい。


「そりゃ毎日だと退屈だな」


 ため息とともにこぼした愚痴に、望んだ通りの言葉が返ってきて嬉しくなる。


「そうなの! あなたわかってくれて? あなたのお住まいの宮殿はよいわね」

「海はな。おかはどうだか」


 陸にも家があるような物言いだ、と思ってから可笑しくなった。そりゃあるわよね、彼は亀じゃないもの。でもそれを指摘すると、気安い時間が終わってしまう予感がしたから黙っておいた。


「海と陸はそんなに違って?」


 かわりに聞いたのはこんなこと。このくらいなら平気だろう。


「そりゃ大違いだね」

「なら私と歩いていないで早く海にお帰んなさいよ」

「え?」

「行き先はわかったでしょう?」


 亀次郎はさっきこう言ったのだ、どこに行こうとしてるのかだけでも教えてくれ、って。それにはもう答えたもの。


「あー、そうだな。それはそうなんだが……そのなんとかって珈琲屋、俺も行って構わないか?」

「え? あなたも行きたいの? 今から? 私と?」

「ああ」


 亀次郎からの突然の申し出は、私の中に二つの気持ちを生んだ。ひとつは戸惑い、そしてもうひとつは、


「そ、そんなに来たいならご自由に、どうぞ。そうね、あなたが一緒なら悪党にも狙われなさそう。あなたは亀にしちゃ大きいもの」


 このひとが来てくれたら安心かもっていう気持ち。


「助けていただいた礼に今日一日、用心棒になってやろう」


 偉そうに胸を張る亀次郎の姿に、吹き出すのをこらえられなかった。


「笑うとこじゃないよな?」

「だってあなた子供に棒でつつかれてたのに」

「ああ、それはあれだ。が、餓鬼を脅しつけちゃ寝覚めが悪いだろう」

「まあ、そうね」

「で、俺も行っていいんだな?」


 唐突にやや強引に話を戻された。ちょっと残念。もう少し、この体の大きな年上の男をからかっていたかったのに。


「ええ、いいわ。用心棒ね?」

「よし。だがお嬢さん、ひとつ問題がある」

「問題?」


 なにかしら。お金なら私が持ってる。荷物を取り返してくれたお礼に珈琲をご馳走するくらいなんでもない。そう伝えようと唇を薄く開いたのと同時に亀次郎が言った。


「まだ早い」


 お金じゃなかった。ぐ、と発音しかけた言葉を飲み込みつつ、眉根を寄せ彼を見上げ、視線で尋ねた。


 “なにが?”


「開店前だ」

「あ、そうね」


 そうだわ、まだ朝だった。そろそろ和子さんたち、家を出る頃かしら。お母さまたちは……。


 みんなを思い出したら急に気持ちがしなびてきた。お腹も空いてるんだった。私は謎の亀といて、空腹を抱えて、さし当たりの行き先を失ったところ。


「市電に乗りたいんだよな? とりあえずあれに乗らないか、港の方へ行くやつだ」


 と、亀次郎が道の先の停留所を指差し言った。茶色の市電が速度を落とし、停留所に近づいているところ。


「港? あなた帰りたくなった?」

「まさか。朝飯。港に旨い定食屋がある。行こうぜ」


 定食屋。

 どんなところかしら。


「ほら! 来いよ!」

「ちょっ、待って!」


 通りを渡りはじめた亀次郎の背中を追って、車道に一歩を踏み出した。市電、あれに乗るのね。港で働くひとたちが列を作っている。乗れるかしら。わからない。でも、わくわくするわ。市電。市電にやっと乗れる!

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