アムネジア リバース

ミセスk

プロローグⅠ Numbness(ナムネス)

 地方都市の緑に沈む丘陵地に、ひっそりと古びた病院が建っている。

 その一室で、水瀬栞みなせしおりは静かに目を閉じていた。

 生まれつき手足が不自由で、車椅子の生活を余儀なくされていた彼女は、高校生の頃から週に数回、この病院でリハビリ訓練を受けていた。

 その時、ボランティアとしてリハビリ室に顔を出していたのが、当時研修医をしていた葛城宗一郎くずしろそういちろうだった。

「お疲れさま、水瀬さん。これ、よかったら」

 そう言って差し出される袋の中には、いつも小さな焼き菓子や缶ジュースが入っていた。

 最初は遠慮していたが、何度も顔を合わせるうちに、自然と受け取るようになっていった。

 ――あの日もそうだった。

 リハビリ室に向かう途中、葛城は笑顔でジュースを差し出してきた。

 喉が渇いていた栞は、何の疑いもなくそれを飲み干し、平行棒に手をかけた。

 だが、次の瞬間、視界がふっと霞み、足から力が抜けた。

 身体は床に崩れ落ち、そのまま意識を失った。

 搬送先の病室で告げられた診断は、

 わずかに残っていた運動機能も完全に失われ、彼女は完全な寝たきりとなった。

 事故の詳しい原因について、栞は知らされていない。

 ただ一つわかっているのは、あの日を境に、彼女の世界が完全に変わってしまったということだった。

 両親はすでに他界し、頼れる人もいない。

 心の拠りどころだった読書も、今ではページをめくる力さえ残されていない。

 ベッドの脇に積まれた文庫本の山は、ただの飾りと化していた。

 朝と夜の区別すら曖昧になり、静寂だけが日々を満たしていく。

 点滴の滴る音が、時間の流れをわずかに知らせる唯一のものだった。

 そんなある夕暮れ――病室のドアが、静かにノックされた。

「水瀬さん、少しお時間よろしいでしょうか?」

 葛城宗一郎――まだ若い医師だが、その身からは医療者というよりも“観察者”に近い冷ややかな気配が滲んでいた。

 無表情の奥に、感情の色はほとんど見えない。

 入院が決まり、担当医として名乗りを上げたのは彼自身だったが、その理由は、病状の把握や治療方針以上に、彼女という存在そのものに“関心”を抱いたからだった。

 それは、決して温かな意味での興味ではなかった。

 彼の視線は、まるで患者ではなく“実験の結果”を見ているようだった。

 無表情な顔に、後悔も躊躇ちゅうちょもない。

 ただ機械的に、手にしたタブレットを見下ろしながら口を開く。

「……新しい薬の臨床試験りんしょうしけんにご協力いただけませんか」

 その声は、過去にあの“事故”を引き起こした人物とは思えないほど、変わらぬ静けさを保っていた。

 まるで――あれは“失敗”ではなかったとでも言いたげに。

「あなたの症状に効果があるかもしれません」

 彼の手には、小さなピンク色のカプセルがあった。

 それはという名の薬だった。

「……もう、どうでもいいんです」

 栞は、自嘲するようにかすれた声でそう答えた。

 生きることに疲れ果てた彼女にとって、それが毒であろうと、奇跡であろうと、どうでもよかった。

「そうですか……」

 葛城はほんのわずかに視線を伏せたが、その奥にあるものは読み取れなかった。

 次の言葉をかけようとしたその時、栞の視線がそっと動いた。

 ベッドの脇に置かれたピンク色のカプセルを、まっすぐに見つめている。

 微かな呼吸、まつげの震え――

 声はなくとも、それが彼女の“答え”なのだと葛城は悟った。

 彼は無言のままカプセルを取り上げ、そっと唇元へ運ぶ。

 そして、栞の口に慎重に滑り込ませ、用意していた水で流し込んだ。

 僅かに喉が動く。

 栞は静かに目を閉じた。

 その表情には、苦しみも拒絶もなかった。

 それは、彼女が自ら選び取った“はじまり”だった。

 その夜、彼女はいつもより深く、深く眠りについた。

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