27 さようなら私
場所:?
語り:鏡花澪
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この学校には幽霊がいる。一年のころから、私はそれに気づいていた。旧校舎の裏、三階北の窓を見あげると、白い影が揺れている。
――去年自殺した雨宮詩織先輩か。一度話してみたかったな。
――そうすれば、一緒に死ねたかもしれないのに。
夏でもずっと長袖で、シャツのボタンもいちばん上までとめている私。その手首や胸元には、自分で自分につけてしまった、いくつもの傷跡が残っている。
――きっと、詩織先輩なら、私の気持ちを理解してくれるよね。
ヒリヒリと痛む傷を押さえて、私は大きなため息をついた。
兄だけを可愛がるお母さんと、見て見ぬふりのお父さん。そして、どこまでもわがままで、意地悪な兄。
子供のころ、私はいつも、大声をあげて泣いていた。
――なんで私ばっかり我慢させられるの!?
――お兄ちゃんのせいなのに! どうして私が怒られるの!?
――お願い、だれか! 悪いのはお兄ちゃんだって言って!
――間違えたこと、私にちゃんと謝ってよ!
そんな気持ちを言葉にできずに、声が枯れるまで泣き叫んだ。
兄はずる賢くて、いつも自分のやらかしを私になすりつけてくる。
親に頼まれた家事や雑用も、全部私に押し付けておいて、自分がやったようなことを言う。
大事にしてた文具もぬいぐるみも、壊したのは兄なのに、なぜか私が怒られた。
文句を言うと殴られて、身体のあちこちに痣が残った。
それでも母は、兄にはなにも言わなかった。私の泣き声に耳を塞いで、「静かにしなさい」と怒るだけだった。
――どうして私が怒られるの?
年下だから。妹だから。女だから。泣くとうるさいから。怒られて、我慢させられるのはいつも私。
理不尽で、腹立たしくて、悔しくて、悲しくて、痛くて、どうしようもなくて……。
泣いて、泣いて、泣き叫んで、うるさいと怒られてまた泣いて。
涙が枯れるまで泣き続けて、私は『愛されていない』のだと悟った。
どうして私だけ、こんなにも愛されないんだろう。
私の方が優しいのに。私の方が賢いのに。私の方が頑張ってるのに。
――ねえ見て、お母さん!
お願い、ちゃんと私を見て!
私はそんな、バカで意地悪なお兄ちゃんよりいい子だよ!
テストもいつも頑張ってるし、掃除も片付けもやったんだよ!
お友達にも優しくして、いつも『ありがとう』って言われてるよ!
先生も褒めてくれたし、賞状だってもらったよ!
ねえ知ってる? お母さん。
お兄ちゃんは友だちをいじめて、その子からものを取り上げてるよ。
お店に入ったときだって、こっそりお菓子を盗んでるよ。
――ねえ、お母さん。
私がどんなにいい子になっても、お母さんは私を見てくれない。
あの意地悪なお兄ちゃんがそんなに大事?
もっともっと勉強したら、私がもっと頑張ったら、私の方がいい子供だって、あなたは気づいてくれるのかな?
成績がいちばんになったら、たとえお母さんに愛されなくても、私は自分を誇れるかな。
ずっと、ずっと、信じてた。
いい子になれば、いつか愛してもらえるって。
でもね、もう、最近は……。
頑張るのがすごく疲れてきちゃった。
――ねぇ? 私の大好きなお母さん。
もし、私が自殺したら、お母さんは涙を流してくれる?
娘を愛せなかったことを、後悔して泣いてくれるのかな?
そんな想像ばかりを、私は何度も繰り返してきた。
諦めたはずの愛がほしくて。自分の価値を確かめたくて。
何度も何度も、自分の体を傷つけた。手首を切って。首を吊ることも、飛び降りることも考えた。
校舎の三階、窓から身を乗り出して。あの浮遊感を楽しんで。
だけど結局、私は死に切れなかったんだ。
――雨宮先輩。本当に死ぬなんて、すごいです。
――どうすれば本当に死ねるんですか?
――死んだあと、お母さんが泣く姿を見れますか?
そんなことを聞きたくて、高一の夏、私は旧校舎の幽霊、雨宮詩織に会いに行った。
それなのに、
「死ぬことなんてないよ」
彼女は優しい声でそう言って、私を励まそうとした。
――なんだ……。つまらない。
――そんな言葉が聞きたかったわけじゃないのに。
――どうしたら思い切って死ねるのか、私はそれが知りたいのに。
本当にガッカリした。もう二度と来ないと思った。
だけど、気が付くと、私は旧校舎に通うようになっていた。
『家族を悲しませてしまったこと、いまではすごく後悔してるの』
『大切な妹が、悲しむ姿は見たくなかった』
詩織先輩は嘆き続ける。
死ねばすっきりすると思ってたけど、実際に死んだ人のその後を見ると、意外とそうではないらしい。
死んでも苦しみは消えないのだと、彼女は私に教えてくれた。
お母さんの愛は、たぶん一生得られない。
それでもいまは、私の話に耳を傾けてくれる人がいる。
私の孤独に寄り添ってくれる、唯一の存在がここにいる。
私は死ぬのを思いとどまり、高校一年の一学期の期末テストで、なんと学年一位をとることができた。
すると、あのお母さんが、初めて褒めてくれたんだ。
「澪だけでも優秀で助かるよ。お兄ちゃんなんて、本当に手に負えないんだから」
その言葉が、嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
本当に息ができないくらい嬉しくて。
――生きててよかった。
生まれて初めて、心の底からそう思えた。
それからの私は、毎回一位を取れるように頑張ってきた。
朝から晩まで勉強漬けの毎日。休み時間さえ無駄にせず、一心不乱に努力した。
それなのに、高二最初の中間テストで、私は白鷺司に負けてしまった。
白鷺司。めったなことでは感情を見せず、壊れたロボットのように勉強するだけの、面白みのかけらもない男。
そんな相手に、私は負けた。
なんの感慨もないかのような彼の表情は、私の努力を嘲笑うかのようで。
だから罠にかけてやったの。邪魔するやつは許さない。
私はお母さんの、優秀な娘。そうでなくちゃいけないの。
それだけが、私が生まれて初めて得た、唯一つの価値だから。
そこに立っていたのは、もう以前の私じゃない。
優しくて、哀れな私とはさようならよ。
いい子の仮面の内側に、真っ黒な感情が渦巻いて……。
「大丈夫だよ、澪ちゃん」
「譲れない気持ち、私にもよくわかるから」
詩織先輩は、私の弱さや醜さを見ても、責めようとはしなかった。
だって、口では優しい言葉を言っていても、その心の中は憎しみでいっぱい。
彼女は私と同じなのだ。
怒りや哀しみが、死んでも消えずに残ってる。
踏みにじられた、痛みと苦しみ。
だれにも言えなかった孤独と、届かなかった心の叫び……。
そんな詩織先輩は、自分をいじめた生徒たちに復讐をしたいんだって。
「転校してきた妹に、私の復讐を見せてあげるの」
ほらね? やっぱり。
詩織先輩は私と同じ。心の中は、憎しみでいっぱい。
だけどもう、私たちは黙って耐えるだけじゃない。
私がここまで前向きになれたのは、詩織先輩のおかげだから。
旧校舎から出られない先輩の代わりに、私が復讐を果たしてあげるね!
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