第四話「始まりの夜、終わりの影」


 フィランベル家の屋敷には、終日どこか緊張が漂っていた。表向きは優雅で、音楽と花に包まれた社交の場。貴族たちは金糸を縫い込んだ衣装に身を包み、きらびやかな談笑を交わしている。廊下を通るたび、噂と笑い声が霧のように纏わりついてくる。


 だが、その笑いはどこか空虚だった。


 “誰かが狙われている”──屋敷内で囁かれる噂は、既に社交界の常套句のように語られていた。



「ご存じ? 侯爵の甥が、先夜倒れたそうよ」


「毒……ですって。紅茶に混ぜられたとか」


「まさか、また“仮面の夜”の再来じゃないでしょうね」


 聞こえよがしの囁きに、使用人たちが顔を曇らせる。言葉にはしないが、誰もが何かを恐れている。誰かが知っていて、誰かが目を伏せている。



 セイラは、ひとり回廊を歩いていた。淡いブルーのローブが、風にふわりと揺れる。


 窓越しの中庭では、魔法使いたちが炎や雷を打ち合う競技に興じていた。


「これが……“今”の魔法」


 雷光が走るたび、地面が震える。花壇が焦げ、空気が焼ける。だが、誰も咎めない。そこにあるのは、力を誇る歓声と陶酔。


 セイラはそっと目を伏せ、ローブの内に手を差し入れた。占術の石が、微かに熱を持つ。


 ──燃える力では見えないものが、ある。


 彼女はまた、廊下を進んだ。



 その夜。セイラは、再びリリアナと顔を合わせた。場所は屋敷の北棟、誰も使わぬ古い音楽室だった。壁の楽譜は黄ばみ、ピアノは沈黙して久しい。


「来てくれたのね」


 月光を背に、リリアナは立っていた。赤いドレスに黒いショール、そして左半分だけの仮面。仮面の笑みは静かに凍り、目元だけが沈んでいた。


「……あの毒は、誰のためだったの?」


 セイラの問いに、リリアナは答えなかった。ただ、そっと指先を組み、仮面の下の頬をなぞった。


「私は……かつて、“命を断つ役”を演じたことがある」


「役……?」


「踊りは、演目。仮面は、その“役柄”を与える。私は“殺すための仮面”を与えられ、そして……踊った。舞台の上でも、夜の帳の中でも」



 それは──暗殺者の記憶だった。



 かつて、戦乱の影で“仮面の踊り子”として任務に就いた者たちの噂は、セイラも聞いたことがある。


 笑い、舞い、毒を振るい、刃を仕込む──それが“役”であり、“術”であった。


「今はもう、命じられてなどいない。けれど……私がかつて撒いた毒が、まだこの屋敷に残っている気がしてならないの」


 その声は、震えていた。心の奥で、過去が今を蝕んでいる。セイラは静かに頷いた。


「なら、終わらせましょう。あなたの中の“舞台”を」


その言葉に、リリアナの目がわずかに見開かれた。


 そして、ふっと笑った。


「……本当に、変な人。占い師って、もっと冷たいものだと思ってた」


「冷たいのは占いの結果よ。私は──旅人だから」


 二人の間に、夜の静けさが流れる。

 それは舞台の幕間のようで、けれど次の幕が血に染まる可能性を、二人とも知っていた。




 一方、アルヴァは屋敷の東の中庭にいた。


 ひと気のない庭園の片隅で、弓の弦を調整している。月光を受けて、弓がかすかに鳴いた。


 広場の奥では、魔法使いたちが光と雷の競技に興じている。火球、氷槍、飛翔術……どれも派手で、威力はあるが、隙も多い。


「派手な芸は、的にされやすいってな」


 弦を張り直しながら、アルヴァは呟いた。彼の耳は、遠くの会話を拾っていた。


 声の調子、足音の重さ、息遣い──全てが、耳に“音の地図”を描いていく。


「……あの若い魔法士、使用人の部屋に何度も通ってるな。……で、あの女主人は不自然に薬草庫に通ってる……へえ、貴族様のくせに、手が早い」


 呟きながら、アルヴァは薄く笑った。


 詩人は聞く。音に、気配に、言葉の裏に。


「さて、静かに狙いを定めるとするか。毒でも、仮面でも、矢でもな。誰かが“芝居”の続きを始める前に──」


 アルヴァの瞳は、夜の奥を見据えていた。


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