ダブル・イベントの綻び

マイトラ・スクエアの綻び


第四の記憶は、これまでのどの記憶よりも鮮明で、そして歪んでいた。


キャサリン・エドウッズが殺害されたマイトラ・スクエアは、周囲を住宅に囲まれた広場だ。閉鎖的な路地裏とは違い、どこから誰に見られてもおかしくない。そのせいか、記憶の主であるハッチンソンの精神は、極度の緊張と興奮に支配されており、その感情が奔流となって玲の意識を揺さぶる。


『集中して、玲! この記憶は、父の改竄が最も雑な場所。綻びだらけよ!』


アリアの声が、玲を混沌の淵から引き戻す。


二人は、もはやただの漂流者ではなかった。玲はアリアの「目」となり、アリアは玲の「羅針盤」となる。二心同体の、危険な共犯者だ。玲はシステムの監視を欺くため、パニックに陥ったダイバーを演じながら、その実、アリアの指示に従って冷静に記憶の海を泳いでいた。


『あそこを見て。あの建物の壁。テクスチャの解像度が、他より明らかに低い。父は、この部分のレンダリングに時間をかける余裕がなかったのよ。壁の向こうに、隠されたデータ回廊があるはず』


アリアの指示通り、玲は「恐怖に駆られて」その壁に激突するふりをした。壁を通り抜けた瞬間、一瞬だけ、玲の視界にシステムの裏側を走る、青白いデータラインが映り込んだ。


二人は、システムの番人であるノイズの警官たちの巡回ルートを巧みにかわしながら、記憶の核心――犯行の瞬間――へと近づいていく。篠崎の施した改竄の傷跡は、アリアの言う通り、これまでになく露骨だった。犯人が被害者に近づく足音が、ループ再生のように不自然に繰り返される。被害者の最後の言葉が、テープを早送りしたかのような甲高いノイズに掻き消される。


玲は、篠崎の焦りを感じ取っていた。同じ夜に二つの事件を処理するため、彼は、この記憶の改竄作業を急いで終わらせなければならなかったのだ。


そして、二人はついに、最も大きな「傷跡」を発見する。


犯行の真っ最中。犯人が、被害者の顔にハンカチを被せる、その瞬間。ハンカチの布地の質感が、一瞬だけ、ピクセル単位のモザイク状に崩れる。


『ここよ! このモザイクの裏に、彼が最も隠したかったであろう、犯行時の思考データが圧縮されている!』


アリアが叫ぶ。


『私がシールドを張る! もって数秒よ。その間に、彼の思考の深層に飛び込んで!』


アリアの身体から、淡い光の粒子が放たれ、玲の周囲に防御壁を形成する。システムの監視が、一瞬だけ逸らされた。


玲は、ためらわなかった。全ての意識を、モザイク状の綻びへと叩きつける。


今度こそ、切り裂きジャックの、その狂気の正体を掴んでやる。


氷の思考、仲間との断絶


思考の海は、しかし、玲が想像していたものとは全く違っていた。


そこは、怒りや憎悪、あるいは性的興奮といった、狂人の精神に渦巻いているであろう混沌の嵐ではなかった。


信じられないほど、静かだった。


まるで、静まり返った手術室のような、氷のように冷徹で、知的な空間。玲は、ハッチンソンの身体を通して、犯人の思考を直接、追体験した。


『――左腎臓の摘出。肋骨弓下縁に沿い、腰方形筋を避け、正確に切開する必要がある。所要時間、推定90秒』


『鼻を削ぎ落とす。軟骨の構造上、刃は斜め下方に入れるのが合理的だ』


『対象の衣服からの繊維付着を避けるため、カフスは折り返しておくべきだった。次回の課題とする』


玲は、全身が凍りつくような恐怖に襲われた。これは、狂人の思考ではない。冷静で、計算高く、そして、人体を知り尽くした、専門家の思考だ。まるで、難解な外科手術をこなす医師のような、恐ろしいまでのプロフェッショナリズムが、そこにはあった。


切り裂きジャックは、単なる狂人などではない。彼は、何らかの目的を持った、高度な知識を持つ知能犯なのだ。


その冷たい思考の海の底で、玲はふと、場違いな音色を聴いた。


「なぜだ。この氷のように冷たい思考の海に、なぜこんなにも温かい『子守唄』のメロディが響く? まるで、凍てついた湖の底に、一つだけ咲いた花のようだ」


その謎に気を取られた、ほんの一瞬。


それが、命取りとなった。


『警告! 警告! コアデータ領域への不正侵入を検知! 全システム、レベル5の非常警報を発令!』


けたたましいアラームが、世界そのものを揺るがした。


篠崎の、怒りに満ちた声が、天から響き渡る。


「……よくも、私の聖域にまで踏み込んだな! 許さんぞ、来栖玲!」


次の瞬間、玲たちのいるマイトラ・スクエアの風景が、粘土のようにぐにゃりと歪み始めた。地面から、炎のような赤いデータウォールがいくつも噴き上がり、二人の退路を断つ。


そして、広場の中央の地面が裂け、そこから「究極の番人」が姿を現した。


それは、ノイズの警官などではなかった。黒いシルクハットに、ケープコート。顔は影になって見えないが、その手に握られたメスが、禍々しい光を放っている。システムが、玲の恐怖心と、ジャック・ザ・リッパーの伝説を読み取り、作り出した、最悪の怪物。


「玲、逃げて!」


アリアが叫び、玲の手を引こうとする。


だが、天から降り注いだ無数のデジタルの鎖が、アリアの身体を捕らえ、宙へと吊り上げていく。


「アリア!」


「だめ……! 彼が、私とあなたの接続を、強制的に……!」


アリアの姿が、砂のようにサラサラと崩れていく。彼女の悲痛な瞳が、玲の姿を映している。


「……見つけ出して……オリジナルの……記憶を……」


その言葉を最後に、アリアの存在は完全に消去された。


玲の脳裏に響いていた、彼女の温かい声も、今はもうない。


たった一人。


羅針盤を失い、武器を失い、たった一人の仲間さえも失った。


目の前には、伝説の殺人鬼の姿を借りた、絶望的なまでの死の化身が、ゆっくりとこちらへ向かってくる。


全てを失った。


玲は、完全に孤立無援の、デジタルの牢獄の底へと突き落とされた。


もはや、希望の光はどこにもなかった。

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