『レミニセンス・ダイバー:ジャック・ザ・リッパーの追憶』

伝福 翠人

悪魔の招待状

雨の匂いがした。


2042年の東京では、雨はもはや気まぐれな自然現象ではなく、正確に予報され、管理された都市機能の一部だった。ドームで覆われた主要区画の外、古い雑居ビルが密集するこの一帯では、大気中の水分濃度が設定値を超えると、アスファルトに染み付いた数十年来の埃と湿気が混じり合い、独特の甘ったるい匂いとなって立ち上る。来栖玲(くるす れい)は、その匂いを「絶望の香り」と呼んでいた。


自室の窓から見えるのは、隣のビルの壁だけだ。陽光シミュレーションが施された壁面には、偽物の青空と雲が映し出されているが、その映像も経年劣化で所々にノイズが走り、かえって侘しさを際立たせている。玲は、半年前に博士課程の単位を取得して大学を追い出されてからずっと、この六畳一間の安アパートで「研究者」という名の無職を続けていた。


手元のタブレット端末には、またしても不採用通知の定型文が表示されていた。これで8通目だ。


『厳正なる選考の結果、誠に遺憾ながら、この度はご期待に沿いかねる結果となりましたことを……』


遺憾。その言葉が、玲の胸に鈍い痛みとなって突き刺さる。彼の博士論文のテーマは「17世紀日本における情報伝達網の変遷」。指導教官からは「手堅いが、新規性に乏しい」と評価され、どの学会も、どの大学も、彼の存在に価値を見出してはくれなかった。歴史は勝者が作ると言うが、現代のアカデミズムでは、歴史は「新しい視点」を提示できた者だけが語ることを許される。そして玲には、その資格がなかった。


「……くそっ」


悪態とともにタブレットをベッドに放る。画面が明滅し、一件の未読メッセージを知らせた。迷惑メールだろうと無視しかけた玲の指が、送信者の名前を認めて、ぴたりと止まった。


『篠崎 恭一』


心臓が大きく跳ねた。


篠崎恭一。日本の歴史学界、特に近代史研究において、その名を知らぬ者はいない。数々の画期的な論文を発表し、メディアにも頻繁に登場するスター研究者。そして何より、玲が学部生の頃に指導を受け、その圧倒的な知識とカリスマ性に憧れた、かつての恩師だった。


もっとも、大学院に進む際、玲の平凡な才能に見切りをつけた篠崎の方から関係は途絶えていた。そんな雲の上の存在から、なぜ今ごろ連絡が?


恐怖と、ほんのわずかな期待が入り混じった感情でメッセージを開く。


『来栖君、久しぶりだ。君に話したいことがある。極秘裏に進めている私の新しい研究についてだ。もし興味があるなら、明日の15時に私の研究室まで来てほしい。これは君の人生を変えるかもしれない話だ』


簡潔な文面には、玲が返信をためらう隙を与えない、有無を言わせぬ力が込められていた。人生を変える? 大げさな物言いだ。だが、今の玲にとって、それは抗いがたい魅力を持つ言葉でもあった。どん底の生活。これ以上、失うものなど何もない。


玲は、震える指で「伺います」とだけ打ち込み、送信ボタンを押した。


神の書斎


翌日、玲は指定された時刻きっかりに、臨海副都心にそびえ立つ統合研究開発機構(A.R.I.D.)のタワービルを訪れていた。篠崎の研究室は、その最上階にあった。セキュリティゲートをいくつも抜け、専用エレベーターで耳鳴りを覚えながら上昇する。玲の場違いな安物のスーツが、磨き上げられた鏡面の壁にくっきりと映り込んでいた。


通された研究室は、玲の想像を絶する空間だった。


壁一面が巨大なウィンドウになっており、眼下には晴れ渡った東京のパノラマが広がっている。彼の安アパートを覆うドーム群が、まるでミニチュアのようだ。しかし、その近未来的な風景とは対照的に、部屋には年代物の革張りのソファや、膨大な量の古書が収められたオーク材の本棚が並び、まるで19世紀の英国紳士の書斎のような雰囲気を醸し出していた。


「よく来たね、来栖君」


ソファから立ち上がった篠崎は、記憶の中の姿とほとんど変わらなかった。齢六十を超えているはずだが、背筋は伸び、その眼光は少しも衰えていない。むしろ、年齢を重ねたことで、その知性と威厳はさらに深みを増しているように見えた。


「ご無沙汰しております、篠崎先生」


「まあ、座りたまえ。そんなに緊張しなくてもいい」


勧められるままソファに腰を下ろすと、体が深く沈み込んだ。篠崎は玲の正面に座り、テーブルの上に置かれた一つの金属ケースに指を置いた。


「君が今、苦しい状況にあることは聞いている。だがね、来栖君。私は昔から、君の才能を高く評価していた。君は、決して派手な発見をするタイプではない。だが、史料の僅かな違和感を見つけ出す、その執念深いまでの観察眼は、他の誰にもないものだ。そして私の新しい研究には、まさにその才能が必要なんだ」


思いがけない言葉に、玲は顔を上げた。この半年、誰からも評価されず、自分自身でさえ見失いかけていた価値を、篠崎は的確に言い当てていた。


「先生の……新しい研究、ですか?」


「ああ。歴史学を、根底から覆す研究だ」


篠崎はそう言うと、金属ケースを開けた。中には、複雑な電子回路が埋め込まれたヘッドセットのような装置が収められている。


「これは『レミニセンス・ダイブ』システム。非公式な名称だがね」


「レミニセンス……追憶、ですか?」


「その通り。我々は、ついに死者の脳に残された記憶情報を読み解き、追体験する技術を確立した」


玲は、自分の耳を疑った。死者の記憶を、追体験する? それはSFの領域だ。非科学的で、非倫理的で、そして何より……。


「……先生、それは、一体……?」


「もちろん、極秘裏に進められている非合法な研究だ。対象となる脳も、死後72時間以内に特殊な処置を施した、極めて希少なサンプルに限られる。だが、成功すればどうなる? 我々は、もはや断片的な史料や伝聞に頼る必要がなくなる。歴史の当事者の目で、その瞬間を『観測』できるんだ。これ以上の一次史料があるかね?」


篠崎の目が、狂的な輝きを放った。玲は喉が渇くのを感じた。目の前の男は、紛れもなく天才だ。そして、天才だけが持つことを許された狂気を宿している。


「来栖君。君にダイバーになってもらいたい。そして、人類史上に残る、ある巨大な謎を解き明かしてほしい」


篠崎は、テーブルの上に一枚の古い写真をスライドさせた。セピア色の写真には、ガス灯に照らされた石畳の路地と、そこに群がる黒い人影が写っている。19世紀末のロンドン。玲は、その写真が何を意味するのか、一瞬で理解した。


「この事件を、知らない歴史家はいないだろう?」


篠崎の声が、静かな室内に響く。


「1888年、秋。ホワイトチャペルを震撼させた連続猟奇殺人事件。正体不明の犯人は、こう呼ばれた――切り裂きジャック(ジャック・ザ・リッパー)、とね」


切り裂きジャック。歴史上、最も有名で、最も謎に満ちた未解決事件。犯人の正体については、これまで100を超える説が提唱されてきたが、いずれも決定的な証拠はない。


「我々は、あるルートを通じて、当時の有力容疑者の一人とされた男の脳サンプルを入手することに成功した。彼は事件後、別の容疑で逮捕され、獄中で病死したが、その遺体は医学研究用に保存されていた。奇跡だよ」


「その容疑者の記憶に……潜る、と?」


「そうだ。彼が犯人なのか、それとも真犯人を知る何者かなのか。君の目で確かめてほしい。君のあの観察眼ならば、記憶の中に埋もれた、誰も気づかなかった『真実』のかけらを必ず見つけ出せるはずだ」


玲は言葉を失った。提案は、あまりに突拍子もなく、冒涜的だった。人の死を、好奇心で弄ぶ行為だ。だが同時に、歴史家としての血が沸騰するのを止められなかった。切り裂きジャックの正体を、この手で暴く? それは、どんな論文よりも、どんな発見よりも偉大な、歴史的快挙だ。これさえ成し遂げれば、自分を認めなかった学会の連中を、世界中を見返すことができる。


玲の葛藤を見透かすように、篠崎は静かに続けた。


「もちろん、リスクがないわけではない。対象者の記憶に深く同調しすぎると、精神に予期せぬ影響が出る可能性も報告されている。だが、我々のチームが全力で君をサポートする。そして成功の暁には、君が望むもの全てが手に入る。名誉、地位、金……君はこの発見の第一人者として、歴史に名を刻むことになる」


悪魔の囁きだった。甘美で、抗いがたい。


玲は、篠崎のデスクの上に置かれた、古風な銀の懐中時計にふと目をやった。繊細な彫刻が施された美しい時計だが、その蓋には痛々しい引っかき傷がついている。篠崎は玲の視線に気づくと、何でもないように懐中時計を手に取り、ポケットにしまった。その一瞬の仕草に、玲は奇妙な違和感を覚えたが、思考はすぐに目の前の巨大なチャンスへと引き戻された。


リスク。倫理。そんな言葉が頭をよぎる。だが、それ以上に、「このまま何も成し遂げられずに朽ちていく」という恐怖が、玲の背中を押していた。アパートの窓から見えた、ノイズの走る偽物の空。あの「絶望の香り」が、鼻の奥に蘇る。


もう、あそこには戻りたくない。


「……やります」


声は、自分でも驚くほどかすれていた。だが、そこには明確な意志が宿っていた。


「先生。俺に、やらせてください」


篠崎の口元に、満足げな笑みが浮かんだ。それは、全てが自分の計算通りに進んだことを確信した、王の笑みだった。彼はタブレット端末を玲の前に差し出す。画面には、夥しい量の条文が並んだ契約書が表示されていた。守秘義務、権利の所在、そして、いかなる事態においても機構は責任を負わない、という免責事項。


玲は、その内容をほとんど読むことなく、一番下の署名欄に、震える指で自分の名前を書き込んだ。


サインが認証された瞬間、研究室の壁の一部が静かにスライドし、奥から純白の医療用カプセルのような装置が姿を現した。


「準備はできている」


篠崎が言った。


「ようこそ、来栖君。歴史の新しい目撃者よ。これから君は、誰も見たことのない過去への扉を開く」


玲は、まるで引力に引かれるように立ち上がり、その白いカプセルへと歩み寄った。ガラスのキャノピーが開き、リクライニングシートが彼を迎え入れる。


横たわると、柔らかなクッションが体を包み込んだ。篠崎の助手が、あのヘッドセットを玲の頭にゆっくりと装着する。冷たい金属の感触が、こめかみに伝わった。


「最初のダイブは、対象者の記憶への同調が目的だ。深く考えず、流れに身を任せればいい」


篠崎の声が、スピーカーを通して聞こえる。


「それでは、カウントダウンを始める。5、4、3……」


視界がゆっくりと暗転していく。意識が、水の中に沈んでいくように遠のいていく。恐怖はなかった。ただ、これから始まる未知の体験への、焼けつくような興奮だけがあった。


「……2、1。――ダイブ、開始」


その声を最後に、来栖玲の意識は、2042年の東京から完全に途絶した。


次に彼が感じたのは、鼻をつく石炭の煙の匂いと、耳朶を打つ霧雨の冷たさだった。

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