2 ドリュとテオ

 空腹と疲労でもはや歩くことも出来ない。大雨の森を彷徨い歩いてどうにかたどり着いた小さな一軒家。こんな場所に民家が? 誰が住んでいるんだろう。とてもいい匂いがする。


「うっ……」

「あ、起きたかも!」


 妖精のようなささやき声がしてささっと衣擦れの気配があった。うっすら目を開けてみるとまるで物語のような室内がのぞく。

 木目の天井から垂れさがっているのは大型の植物を加工したシャンデリアだ。ログハウスのような室内に一枚板のアンティークの机があって陶器の茶器が置かれている。緑と黄色のデザイン違いの布張りの椅子は職人が作ったようにしつらえがいい。床には斑点模様の鹿の毛皮のラグが引かれていて、あとは細かなカレンダーだとか人形や水彩画がセンスよく飾ってあってモンフィサロの鉢植えもある。


 で、それに可愛い女子。じょ……


「うわあっ!」


 驚きのあまり台から転げ落ちて大げさに体を打つ。あいたったっとしていると声が聞こえて見たこともない生き物が圧しかかって来た。


「ば、化けも……」

「フェンリル! かじっちゃいなさい」

「ちょっと待った! 待った! 怪しいものじゃないから」


 あたふたしながら何とか制止すると女の子が生き物に手を添えて「もういいわ」といった。


「化け物何て失礼よ。この子はフェンリル。れっきとした幻獣、化け物なんかじゃないわ」

「げ、幻獣?」


 噂には聞いていたけれど幻獣なんて生き物がこの世に存在するのか。ふと視線をずらしてよくよく観察すると女の子の頭の横にはピンと尖った耳が付いている。抜けるような白さはまるで妖精。髪は絹糸のように細い銀髪だ。年のころは二十歳そこそこに見えるが、どちらも人間に元来あるものではない。


 見惚れていると彼女がつんと研ぎ澄ましたような表情をした。


「キミ、エルフかい」

「少し違う。わたしは樫の木のニンフ、ドリュアデスよ」


 彼女はそういって木目の壁を手の甲でこんこんっと打った。そうか、この家は。


「樫で出来ているんだね」

「そう」


 ドリュアデスは腰に手を当てて何とも可愛らしいポーズをとっている。だがもちろん本人にそのつもりはないのだろう。顔は不機嫌、イヤちょっと照れているのかもしれない。

 そうかそうか、と青年は内心で相槌を打った。態度をくるりとひっくり返して爽やかな笑顔を浮かべる。


「ドリュアデスさん、助けてくれてどうもありがとう。素敵なお嬢さんでびっくりしているよ。よければ少しお願いしたいんだけれど」

「なっ……」


 ドリュアデスは顔を真っ赤にして少し苛立った表情を見せた。うん、コレも照れ隠しだ。


「突然の雨で困っているんだ。少しだけ滞在させてもらえない?」


 ドリュアデスは口を魚のようにパクパクとさせて顔を紅潮させると手を後ろに回してそういうの困るから! と叫んだ。




 ドリュアデスは結局追い出すこともしないまま青年に風呂を提供した。


(濡れてたから仕方ないとはいえ、風呂って)


 怒ってたわりにこの待遇はなんだろうと考えて見る。

 青年は猫足のバスタブにつかりながら浴室内を見渡す。壁と床はピンクと水色のデザインタイル、でここにも何だかよく分からない植物が天井から吊るされていて。アレ、そういやこのお湯もなんだか清涼感のある香りがする。湯を手ですくい取り、鼻を落として嗅いでみると若い女性が好むパールライトの香りだ。


「精霊っていったよな。まるで……人間の家みたい」


 何かの冗談のような気がして首をかしげて見る。


 湯から上がると籐のラックに大きな布が入っていてどうやらこれで体を隠せということらしい。一応接待はしてくれるということだろう。しかし、女一人の家だものな、男の服なんかあるはずない。


 大きな布で腰を巻いてリビングにいくとドリュアデスが見たこともない生き物たちとおしゃべりしながら作業をしていた。


「ああ、待って。燃やしちゃわないで。遠火で乾燥させるの。あ、焦げた。まあいいか」

「彼らはお友達かい?」

「そっ、ってもう! 気安く話しかけないで」


 ドリュアデスはくるりと身を翻し鼻先をつんと逸らした。


「ドリュアデス」

「…………」

「ドリュって呼んでいい?」

「ダメっ!」


 青年はくすりと微笑んで髪をかき上げた。ドリュアデスはそれ以上拒否する気配はない。同意と受け取り青年は踏みこむつもりで微笑んだ。


「ドリュは精霊なんだろう。人間みたいな暮らししてるけれどそれは一体どうして」

「……でしょ、別に」


 小さく何かをいったけれど聴こえない。再度同じ質問をすると地団太を踏みながら大きな声で「いいでしょ別に!」と返された。


 洋服を乾かしてくれたのは火の精霊らしかった。ドリュアデスの古くからの友人だという。乾いた服を受け取って浴室で着替えているとどこからかいい匂いが流れてくる。砂糖とバターとハチミツに香りづけのブランデーをミックスしたような匂いが。


「お菓子……かな」


 リビングの奥のキッチンへいくとドリュアデスは石窯オーブンを見つめながら難しい顔をしていた。


「何作っているの?」


 ドリュアデスはばっとふり返ってわたわたとしながら答えた。先ほどとは打って変わって割かし乙女らしい表情だ。


「お腹が空いてると思って! でもいいの、要らないならわたしが食べるから」


 そっとそばによると食欲をそそる匂いがする。腹の底をそっと優しく撫でていくような甘美な香りだ。少し見せてくれないと問いかけるとものすごい形相で制止される。


「ダメよ、カヌレは絶対に途中で開けちゃダメ!」

「カヌレ?」

「そう、カヌレを焼いているの」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る