第2話 薔薇の冠と君の手

 私がセシリア・ヴァレンタインとして目覚めてから三日が経った。鏡に映る金髪の巻き髪と緑の瞳は、もうそれなりに見慣れたものになっている。けれど、この世界での生活に慣れることと、運命を変えることは全く別の話だ。


 今朝も、メイドのエマが困惑した表情で私の様子を窺っている。


「セシリア様、今日はどちらへお出かけになりますか?」


「薔薇園に行くわ」


 エマの眉がわずかに上がった。昨日も一昨日も、私は図書館にこもって原作『星冠の恋詩』を読み返していたのだから、彼女にとっては意外だったのだろう。原作のセシリアなら、薔薇園に行くとすれば、それは必ず誰かを困らせるためだったのだから。


「かしこまりました。お供いたしましょうか?」


「いえ、今日は一人で」


 薔薇園は、王宮の中でも特に美しい場所の一つだった。色とりどりの薔薇が咲き誇り、中央には大理石の噴水がきらめいている。朝の陽射しが花びらを透かして、まるで宝石のように輝いて見えた。


 そして、予想通りそこにいたのが、栗色の髪を風になびかせながら薔薇の世話をしている少女―ソフィア・リンデル、小百合だった。


 原作では、彼女は心優しいヒロインで、セシリアの意地悪な標的だった。でも今の私にとって、彼女は運命を変えるための重要な鍵なのだ。


「おはようございます、ソフィア」


 小百合は振り返り、私を見つけると明らかに身を硬くした。彼女の茶色い瞳に浮かんだのは、警戒心と少しの恐怖だった。無理もない。原作のセシリアは、彼女に散々嫌がらせをしてきたのだから。


「お、おはようございます、セシリア様」


 彼女の声は震えていた。そして、わずかに身を引いている。


 薔薇園の奥で作業をしていた庭師が、こちらをちらりと見た。その視線は単なる懸念というよりも、何かを思い出そうとするような、わずかな疑念を含んでいた。あの人は、いつもこの薔薇園にいて、すべてを見ているのかもしれない――そんな気がした。きっと今まで、セシリアがここで小百合に意地悪をする場面を何度も目撃してきたのだろう。でも、それ以上に何かを知っているような、そんな直感が私の胸をよぎった。


「素晴らしい薔薇ね」私は努めて穏やかな声で言った。「あなたが世話をしているの?」


 小百合は困惑したように瞬きした。「は、はい...でも、私はただお手伝いを...」


「謙遜しなくてもいいのよ。見れば分かるわ。この薔薇たちがあなたを慕っているのが」


 私は白い薔薇に近づき、その香りを楽しんだ。ふと、前世の記憶がよみがえる。大学の芝生で、小百合によく似た後輩の女の子と花冠を作ったことがあった。あの子も小百合と同じように、純粋で優しい笑顔をしていた。「美緒先輩、こうやって編むんですよ」と、不器用な私の手を包むように教えてくれた、あの温かい手のひらを思い出す。


「私、今日は花冠を作りたいの。手伝ってもらえる?」


 小百合の目が大きく見開かれた。「え...?」


「前から興味があったのよ。でも一人では上手くいかなくて」


 これは嘘だった。原作のセシリアは、そんな可愛らしいことに興味を示すキャラクターではない。でも、小百合に近づくためには、彼女が安心できる話題を選ぶ必要があった。


 小百合は戸惑いながらも、ゆっくりと頷いた。「はい...喜んで」


 でも、その声にはまだ警戒心が残っていた。そして、私たちの様子を見ていた庭師も、何か言いたげに口を開きかけて、また閉じた。


 私たちは噴水のそばの石のベンチに座り、小百合が薔薇の茎を丁寧に編み始めた。彼女の手つきは慣れたもので、見ているだけで癒された。


「上手ね」私が感心すると、小百合は照れたような笑顔を見せた。


「小さい頃から、よく作っていましたから」


「素敵な趣味ね。私には...そういう女の子らしいことが苦手で」


 これも本音だった。前世の美緒も、どちらかというと本ばかり読んでいて、手芸のような繊細な作業は得意ではなかった。


 小百合は私の言葉を聞いて、少し驚いたような表情を見せた。「でも、セシリア様はとってもお美しいし、何でもお上手じゃないですか」


「外見だけよ。中身は...」私は苦笑した。「もっと素直で優しい人になりたいの。あなたのように」


 小百合の手が止まった。彼女は私をじっと見つめ、何かを考えているようだった。


「セシリア様...」彼女の声が少し震えていた。「私、今まで...セシリア様がお怖くて。でも、今日のセシリア様は...まるで違う方のようで」


「そう見える?」


「はい。とても...優しくて」


 私は小百合の手を軽く握った。「私は変わりたい。今までの自分とは違う人になりたいの」


 小百合の茶色い瞳に、涙が浮かんだ。「私、本当にセシリア様と友達になれるのでしょうか?」


 ようやく出た。彼女の本音が。


「もちろんよ。私があなたの味方になります」


 その時、小百合の表情が変わった。警戒心が溶けて、代わりに温かい笑顔が浮かんだ。


「ありがとうございます、セシリア様」


「美緒でいいわ」思わず前世の名前が出てしまった。「いえ、セシリアで」


 小百合は首をかしげた。「美緒?」


「あ、いえ...昔のあだ名よ。気にしないで」


 私は慌てて話を逸らした。危うく正体を明かすところだった。


「完成しました」小百合が薔薇の花冠を私に差し出した。白とピンクの薔薇が美しく編まれている。


「ありがとう。とても綺麗」


 私は花冠を頭に載せ、小百合に見せた。彼女は嬉しそうに手を叩いた。


「とってもお似合いです!セシリア様はやっぱり美しい方ですね」


 その時、薔薇園の入り口の方から、ひそひそとした話し声が聞こえてきた。


「あれ、あのセシリア様が...ソフィア様に...?」


「珍しいことね。いつもなら...」


 貴族の令嬢たちが数人、こちらを見ながら囁いている。彼女たちの表情には、明らかに困惑と興味深さが混じっていた。その中に、金髪に鋭い視線をした女性の姿も見えた。アスカ夫人の腹心らしき侍女だった。


 私は内心でぞっとした。セシリアの行動の変化は、すでにアスカ夫人の監視網に入っているのだ。でも、それでも構わない。むしろ、変化していることを示すのは重要だった。


「気にしないで」私は小百合に向き直った。「人は変わることができるのよ」


 小百合は頷いた。「はい。私もそう思います」


 私たちは花冠作りを続けた。小百合が私の分を作ってくれている間、私は彼女の分を作ろうと悪戦苦闘していた。不器用な私の手つきを見て、小百合は楽しそうに笑った。


「セシリア様、こうやって...」


 彼女は私の手を取り、薔薇の茎の編み方を教えてくれた。その手は温かく、優しかった。前世の記憶にある後輩の手と同じように。


「ありがとう。あなたがいてくれて良かった」


「私こそです。こんなに楽しくお話しできて...嬉しいです」


 小百合の笑顔は本物だった。もう警戒心は完全に消えている。


 私は原作の知識を思い出していた。彼女は魔法の素質を持っている。そして、レンとの恋愛も...


「小百合」私は慎重に言葉を選んだ。「あなたには特別な才能があるのね」


「え?」


「魔法よ。あなたの魔法、とても美しいと聞いているわ」


 小百合は驚いたように目を見開いた。「どうして...?」


「あなたの周りの花が、いつもより美しく咲いているもの。きっと、あなたの心の美しさが花に伝わっているのね」


 これは推測だったが、小百合の表情から、当たっていることが分かった。


「私、まだまだ未熟で...」


「そんなことないわ。自分の力を大切にして。それはあなたの素晴らしい個性よ」


 小百合は嬉しそうに頬を染めた。「セシリア様にそう言っていただけて...ありがとうございます」


 私たちは花冠を完成させ、お互いの頭に載せた。鏡のような噴水の水面に映る私たちは、まるで本当の友達のように見えた。


「これからも、こうして一緒に過ごせたらいいね」私は言った。


「はい!私もそう思います」


 小百合が立ち上がろうとした時、彼女の手から小さな紙片が落ちた。


「あ...」


 それは詩が書かれた紙のようだった。小百合は慌ててそれを拾おうとしたが、私の方が早かった。


「素敵な詩ね」私は紙を見て言った。「あなたが書いたの?」


 小百合は顔を真っ赤にした。「は、はい...でも、まだ下手で...」


「とんでもない。とても美しいわ」


 私は紙を彼女に返した。実際、その詩は心のこもった美しいものだった。原作でも、小百合の詩の才能について触れられていたが、実際に見ると、その感性の豊かさに驚かされる。


「今度、もっと聞かせてね」


「本当ですか?」小百合の目が輝いた。


「ええ。私、詩を読むのが好きなの」


 これは本当だった。前世の美緒も、小説だけでなく詩集もよく読んでいた。


 私たちが話していると、薔薇園の向こうから、ゆっくりとした足音が聞こえてきた。振り返ると、そこには黒髪に氷のような青い瞳をした男性が立っていた。


 レン王子だった。


 彼は私たちを見つめていたが、その視線は私に集中していた。まるで、私の心の奥を見透かそうとするような、深い視線だった。


 小百合は王子の登場に緊張し、深くお辞儀をした。「王子殿下」


「ソフィア」レンは小百合に軽く頷いてから、再び私を見た。「セシリア」


「王子殿下」私も礼をした。


 レンは私たちの花冠を見て、わずかに眉を上げた。「珍しい光景だな」


 私は内心で身構えた。原作では、レンはセシリアに対して冷淡で、最終的には婚約を破棄する。でも今の彼の表情には、冷淡さよりも...興味深さのようなものが浮かんでいた。


「たまには、こういうことも良いかと思いまして」私は答えた。


「そうか」レンは歩み寄ってきた。「よく似合っている」


 え?


 私は思わず彼を見返した。原作のレンなら、こんな言葉をかけるはずがない。


「ありがとうございます。でも...」私は少しだけ微笑んで言った。「王子殿下も、今度は花冠の似合うお方になっていただけますか?」


 一瞬、レンの青い瞳が驚いたように細められた。そして――ほんの少しだけ、彼の口元が弧を描いた。


 まるで、長い冬のあとに初めて見る春の陽射しのように、やわらかい笑みだった。


「君が作ってくれるなら」彼の声は低く、どこか懐かしそうだった。「考えてみよう」


 私の心臓が跳ね上がった。これは...これは完全に原作から外れている。


 小百合も驚いたような顔をしていた。きっと彼女も、王子のこんな表情を見たことがなかったのだろう。


 レンは私の顔をじっと見つめていた。その視線には、何か深い意味が込められているようだった。まるで、「それでも君は変わっていないな」と言われているような...


 そんなわけ、ないのに。


 彼は私の前世を知っているはずがない。でも、あの視線は...


「セシリア」レンが口を開いた。「今度、図書館で会えるかもしれないな」


 図書館?私がこの数日、図書館に通っていることを、彼は知っているのだろうか。


「はい...」私は曖昧に答えた。


 レンは軽く頷いて、その場を去っていった。でも、去る前にもう一度、私を振り返った。その瞬間、私は彼の胸元に光るペンダントに気がついた。


 星の形をした、小さなペンダント。


 それは、私が前世で持っていた、大切なアクセサリーとよく似ていた。


 たしか...誰かに貰ったものだった。卒業式の帰り道、雨上がりの夕暮れ。私の手にそっとそれを握らせた、誰か――


 でもその顔がどうしても思い出せない。まるで、霧の中に隠された物語のように。


「セシリア様?」小百合の声で我に返った。「大丈夫ですか?顔色が少し...」


「ええ、大丈夫よ」


 でも、心臓がまだドキドキしていた。レンの視線、そして星のペンダント。偶然にしては、あまりにも...


「王子殿下、とても素敵な方ですね」小百合が言った。「今日は特に...なんだか優しそうでした」


 私は複雑な気持ちになった。原作では、この婚約は破綻する運命にある。でも、今日のレンの様子は、原作とは違っていた。


「どうかしら」私は曖昧に答えた。


 私たちは花冠を外し、別れの時間が来た。小百合は最後に、小さな封筒を私に差し出した。


「今日のお礼です。お時間のある時に読んでください」


 それは彼女が書いた詩を清書したもののようだった。封筒には薔薇の花びらが一枚、栞として挟まれている。


「ありがとう。大切にするわ」


 小百合は嬉しそうに頷いて、薔薇園を後にした。去り際、彼女は振り返って手を振った。その笑顔は、朝とは全く違って、心からの親しみに満ちていた。


 私は一人残り、噴水のそばに座った。小百合からの手紙を手に、今日の出来事を振り返っていた。


 小百合との友情は、確実に芽生えている。これで、運命を変える第一歩は踏み出せた。でも、レンの存在が気になる。彼の視線、星のペンダント、そしてあの微笑み...


 私は前世の記憶を辿ろうとした。あのペンダントと似たアクセサリーを、誰からもらったのだったか。


 雨上がりの夕暮れ、桜の花びらが舞い散る校庭。「これ、君に似合うと思って」そう言って手のひらに置かれた小さな星。


 でも、その人の顔は霧がかかったように曖昧で、声だけがかすかに記憶に残っている。低くて、優しくて、どこか寂しそうな声。


 まさか...


 薔薇園の奥で、庭師が道具を片付けながら、私をちらりと見た。その視線は今度ははっきりと意味深で、まるで「ようやく思い出し始めたか」とでも言いたげだった。


 私は立ち上がり、城に戻ることにした。小百合の手紙を大切に胸に抱きながら。


 運命を変える旅は始まったばかり。でも、今日という日は、確実に希望に満ちた一歩だった。


 そして、レンの謎めいた行動が、この物語にどんな変化をもたらすのか。それもまた、私が解き明かさなければならない謎の一つだった。


 夕日が薔薇園を黄金色に染める中、私は新しい決意を胸に城へと向かった。


 前世の記憶、レンの星のペンダント、そして小百合との友情。すべてが絡み合って、私の運命は確実に動き始めている。


 明日からは、図書館でさらに情報を集めよう。そして、レンとの再会に備えるのだ。


 私の物語の書き換えは、まだ始まったばかりだった。


 廊下を歩きながら、私は小百合の手紙を開いた。そこには美しい文字で詩が書かれていて、最後にこんな一行があった。


「真の友情は、心と心が通じ合った時に生まれるもの。今日、私はそれを知りました。セシリア様、ありがとう。―ソフィア」


 私は思わず微笑んだ。今日は確実に、運命を変える第一歩だった。


 でも同時に、レンの謎めいた笑顔と星のペンダントが頭から離れなかった。


 この物語の行く末は、きっと私が想像していたよりもずっと複雑で、そして...美しいものになるかもしれない。

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