聖剣のアルカディア〜身長190cmの悪役令嬢様、美少年騎士団を懐柔する~
火之元 ノヒト
第1章 偽りの巣と雛鳥たち
悪役令嬢、母性に目覚める
第1話 目覚めたら、悪役令嬢
頭の芯が、鈍く痛む。まるで分厚い水の中にいるみたいに、何もかもがぼんやりとしていた。ゆっくりと瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど豪奢な彫刻が施された天蓋だった。ゆらりと揺れる絹のカーテン。ふわりと鼻をくすぐる、甘い花の香り。
「……どこ、ここ」
掠れた声は、自分のものではないように低く、それでいて妙に澄んで聞こえた。体を起こそうとして、そのあまりの重さと、自分の視線がやけに高いことに気づいて息をのむ。ベッドから投げ出された自分の手は、驚くほど白く、指はすらりと長い。私の知っている、子供たちと砂遊びをしたり、絵本をめくったりした、少し節くれだった手とは似ても似つかない。
「お嬢様! お目覚めになられましたか!」
甲高い声にびくりと顔を上げると、そこに立っていたのはフリルのついたエプロンドレスを着た、見知らぬ若い女性だった。彼女は私を「お嬢様」と呼び、心底安堵したような顔で胸を撫でおろしている。
「マリア……? ごめんなさい、少し混乱していて……」
口から滑り出たのは、知らないはずの侍女の名前。どうして私は彼女の名前を知っているの? 混乱は深まるばかりだ。
「まあ、おいたわしい……。昨夜、お倒れになった時のことを覚えていらっしゃらないのですね。旦那様も奥様も、大変ご心配なさっていましたのに……」
マリアと呼ばれた侍女は、そう言って悲しそうに眉を寄せた。彼女の言葉は、私の混乱をさらにかき混ぜる。倒れた? 心配? いったい、誰の話をしているのだろう。私は堀井静香。28歳の、ごく普通の保育士だったはずだ。
そうだ、保育園の帰り道、横断歩道に飛び出してしまった園児の姿が見えて、私は……。
『危ないっ!』
耳鳴りのような急ブレーキの音。体に突き刺さるような衝撃。そして、小さな男の子の泣き声を聞きながら、アスファルトに広がっていく自分の血の温もりを感じたのが、私の最後の記憶。
「お嬢様、顔色が……。お医者様を呼びましょうか?」
「ううん、大丈夫。それより、鏡を貸してくれる?」
自分の身に何が起きたのか、確かめなければならない。マリアは戸惑いながらも、アンティークの美しい手鏡を差し出してくれた。震える手でそれを受け取り、ゆっくりと顔をのぞき込む。そして、私は息をのんだ。
鏡の中にいたのは、全くの別人だった。絹糸のように滑らかなプラチナブロンドの髪。意志の強そうな──しかし今は不安げに揺れる翠色の瞳。陶器のように白い肌に、血のように赤い唇。それは、人間離れした、神様が気まぐれに作り上げた芸術品のような美貌だった。
手鏡を落としそうになり、慌てて全身が映る姿見の前に立つ。そこに立っていたのは、見上げるような長身の女だった。軽く見積もっても190センチ近くあるだろうか。そして、薄い寝間着の上からでもわかる、現実離れした豊満な胸と、きゅっと締まった腰のライン。まるで、誰かが作り上げた物語の登場人物のような、規格外のスタイル。その顔と姿に、私はは見覚えがあった。
「嘘……でしょ……」
脳裏に、雷に打たれたような衝撃と共に、膨大な記憶の濁流が流れ込んできた。それは、私が前世で夢中になってプレイした、乙女ゲーム『聖剣のアルカディア』の記憶。
鏡の中の美女は、そのゲームの登場人物。強大すぎる聖なる力と、その傲慢な振る舞いから、ヒロインを虐げ、最後には婚約者である王子から断罪される運命にある悪役令嬢。セレスティア・フォン・ヴァレンシュタイン、その人だった
「ああ……っ!」
二つの人生の記憶が混ざり合い、頭が割れるように痛む。保育士、堀井静香としての28年間。そして、伯爵令嬢セレスティアとしての17年間。私は死んで、ゲームの世界の、よりにもよって悪役令嬢に転生してしまったのだ。
「お嬢様! やはりお加減が……!」
「下がってなさい!」
思わず、セレスティアとしての傲慢な口調が出てしまった。マリアはびくりと肩を震わせ、怯えたように後ずさる。違う、そんなつもりじゃ……。でも、今の私には彼女を気遣う余裕なんてなかった。
ふらふらとベッドに戻り、顔を覆う。どうして。どうして私が、セレスティアになんて。彼女の運命は、あまりにも悲惨だ。その強すぎる力を王家から警戒され、周囲からは「偽りの聖女」と疎まれ、最後は全てを失って国外追放、あるいは──別のエンディングでは──修道院へ幽閉される。そんなの……あんまりじゃないか。
呆然とする私の前に、マリアが恐る恐る何かを差し出してきた。それは、貴族女性の必需品であるコルセットだった。硬い鯨の骨が埋め込まれた、体を締め上げるためだけの醜い拘束具。
それを見た瞬間、私の中で何かがぷつりと切れた。
「いやあああああっ!」
私は絶叫していた。こんなもので体を締め付けて、息苦しいドレスを着て、偽りの笑顔を貼り付けて夜会に出て、つまらない男たちの機嫌をとって、挙げ句の果てには断罪される? 冗談じゃない! そんな人生、絶対に嫌だ!
私はベッドに突っ伏し、子供のように声を上げて泣いた。悔しくて、悲しくて、怖くて、どうしようもなかった。堀井静香としての人生は、決して裕福ではなかったけれど、そこには確かな幸せがあった。子供たちの笑顔、小さな手、温かい体温。それが私の全てで。生きる喜びだった。
「子供たちに……会いたい……」
もう、あの笑顔に会うことはできない。あの温もりに触れることもできない。そう思うと、胸が張り裂けそうだった。このだだっ広くて豪華な部屋は、まるで牢獄のようだ。悪役令嬢としての運命も、この息の詰まるような生活も、何もかもが私から大切なものを奪っていく。
どれくらい泣き続けたのだろう。しゃくりあげる私の背中に、マリアが困り果てたような、同情するような声をかけた。
「お嬢様……。お気持ちは分かりますが、そろそろお支度を……。本日は、王立騎士団への差し入れの準備がございます」
事務的なその言葉は、初め、私の耳を素通りしていった。騎士団? 差し入れ? そんなこと、今の私に何の関係があるというの。
「……騎士団……?」
ぽつりと、その単語を繰り返す。ゲームの記憶が、脳の片隅でざらりと音を立てた。『聖剣のアルカディア』の攻略対象は、王立騎士団に所属する青年騎士たちだった。でも、確か……。
騎士団には、まだ騎士になる前の、幼い候補生たちがいたはずだ。
そうだ。ゲームの序盤、主人公が世話を焼くことになる、十代半ばの、まだあどけなさが残る少年たちが。
絶望で真っ暗だった私の心に、ちいさな光が灯った。
子供たち……。
この世界にも、「子供たち」がいるじゃないか。
私は勢いよく顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、目を丸くしているマリアを見つめる。
そうだ。破滅フラグなんて、今はどうでもいい。断罪される運命だって、まだ先の話だ。それよりも、今の私には、やらなければならないことがある。この胸の奥で疼く、どうしようもない渇望を満たすために。
「ねえ、マリア」
私は震える声で、目の前の侍女に語りかけた。
「その騎士団のこと、もっと詳しく教えてちょうだい。特に、候補生の少年たちのことを」
私の瞳に、絶望とは違う光が宿ったのを、マリアは不思議そうな顔で見つめていた。
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