第49話 甘やかな時間

 がしっ、とシルキーはバイエルの頭を掴み、無理矢理自分の方を向かせた。


「私を見て、もう一度言って」

 バイエルの頬にサッと朱が差す。

 藍色の瞳がかすかに揺れる。


(これは、恥じらい)

 彼が、特別な人間にしか見せない表情。

「シルキー……!」


「……く……ふふ……っ」

 狼狽えるバイエルを見たら、不思議と笑いが込み上げてきて満足してしまった。


(私はこの人の特別)

 ずっと特別だった。

 その事実がたまらなく嬉しい。妻に興味が無い振りをしていた彼を思い出すと、つい口元が緩んでしまう。


「?」

 バイエルが戸惑った顔をする。

(ああ、いけないわ)

 多分、今自分はこの上なくにんまりしてしまっていた。


 シルキーはバイエルの手に触れた。その手を繋ぐようにきゅっと握って尋ねる。

「猫は9つの命を持ってるのを、知ってる?」

「……いや」


 シルキーはバイエルに強気の笑顔を見せる。

「どんな困難にぶつかっても、しぶとく生き残るのが猫よ」


 バイエル、とシルキーは夫の藍色の瞳をまっすぐ見て言った。

「私が貴方の猫になる。貴方が守れなかったと思っている猫の分まで貴方のそばにいて、私達に仇なす者たちを全員蹴散らしてみせるわ」


 バイエルが小さく吹き出した。

「お前が言うと、『猫になる』も『蹴散らす』も冗談に聞こえないな」

 そう言うと、バイエルはシルキーの髪を優しく耳にかけてくれた。


「シルキー」

 バイエルはからかうように、やや上目遣いでシルキーに笑いかけた。

「兄上が好きなんじゃなかったのか?」


「なっ……」

 こんな大事な場面で。

 勇気を出して決意を伝えたのに。

(なんてことを言い出すのこの夫は!!)


「『貴方を好きになることなどありえない』と啖呵を切られたのも覚えているが。あとは、『貴方ごときに』」

「ねっ……猫は移り気なの……!」


 際限無く過去の自分の発言を掘り返されてしまいそうなので、シルキーは慌てる。


「そうか……それなら」

「……!」

 ふわりと、目の前に伏せられた長いまつ毛が現れた。


 唇に押しあてられた、柔らかい物。

 わずかに音を立ててゆっくり離れると、バイエルは藍色の瞳で、シルキーを捉えて囁いた。


「また他の男に気持ちが移らないように、この猫はしっかり捕まえておかねばな」


 いつのまにか両手の指はバイエルの指と絡み合っていて、逃げることもできないまま再び口付けられた。


「……ん」

 バクバクと心臓の音が警鐘を鳴らすように頭に響く。

 顔が熱い。


 唇が触れ合うたび身体の内側、奥の方がじんと疼く。そのたび“もっと”と訴えてくるような抗いがたい熱い物が生まれる。


 自分を突き動かすその正体が分からないまま、シルキーは夢見心地で彼の唇を求めた。


 シルキーが吐息を漏らすと、バイエルは何故かつらそうな顔で長く息を吐いた。

「シルキー、今日はここまでだ」

「……え」

「肩の傷が開いている」

「ひゃあ!!」


 肩の部分が真っ赤に染まった部屋着のドレスに、シルキーは悲鳴をあげた。

(そう言えば頭がクラクラするような)


 心臓がすごい速さで脈打っている。それに合わせてだくだくと肩の矢傷から流血している気がする。

 我に返ると同時に痛みが増してきた。


「侍医を呼ぶから安静にしていろ」

 素早くバイエルが動いてくれる。


 シルキーは一人になった寝室で考えた。

(全てのことが、すっきりしたわけじゃない)


 クーデター後、バイエルがモロウ側の情報を探るために呼んだのだと打ち明けてくれた、あの夜の女性———オリヴィアのことを思い出すと、いまだにシルキーの胸はズキリと痛む。


 しかし彼自身がシルキーを好きだと言ってくれた。


 出会った時から好きだったと———

 今はそれだけで十分だと、シルキーには思えた。

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