第3章 世界の理

第21話 私も愛しているわ

夜明け。

海と空の境界が、まだぼんやりと溶け合っていた。


ユウトの背が、静かに甲板に立っている。

黒髪が、湿った朝霧に濡れていた。


私は少し離れた場所から、その背中を見つめていた。


“ユウト”と再会した夜から、それほど時間は経っていない。

けれど、世界の色が、ほんの少しだけ変わったような気がしていた。


彼が振り返る。

何も言わず、ただ微笑んだ。

その表情には、懐かしさと決意が、静かに宿っていた。


──海が、戻ってきた。


あの神殿の海門が開いた瞬間、

封じられていた潮の流れが、ゆっくりと世界に満ちていった。


父が絶望から海を呪い、

そして、私が怒りに任せて世界を壊した。

その残滓が、ずっとこの世界から海を奪い続けていた。


でも今、それがようやく解かれた。


神殿のほど近くには、忘れられた桟橋があった。

そこに浮かんでいたのは、風化した帆船。

かつて彼と旅した、あの船によく似ていた。


私たちは、それに乗り込んだ。

未来へ向かうための、たったひとつの“道”のようだった。


 


「風、読めるか?」


ユウトの声が、帆の軋む音に混じって届いた。

その手は帆のロープを掴みながらも、どこか楽しげだった。


「ええ。なんとなくね」


私は頷き、小さく笑った。


風の匂いも、変わっていた。

懐かしい潮の香りが鼻をくすぐり、

世界が少しずつ、息を吹き返しているのを感じる。


帆がふくらみ、船がきしむ音が響く。

私たちは、再び海へと戻っていく。

新しい旅の、静かな始まりだった。


 


彼の背を見つめながら、私はそっと笑みを浮かべた。


隣に彼がいる。

それだけで、こんなにも胸が満たされるなんて。


けれど、言葉にはできなかった。


「好き」と言えば、この静かな朝を壊してしまう気がした。

もう一度何かを失ってしまうような、そんな予感が、

胸の奥に、ひっそりと巣食っていた。


ふと、彼が振り返る。


「……どうした?」


「なんでもないわ」


それだけ言って、笑ってみせた。


すると、真面目な顔になったかと思えば、どこか照れくさそうにしている。


変な人。

そう思っていると、ユウトが目をそらしながら言った。


「……月が、綺麗だと思って」


「もう、沈んだわよ」


私は笑った。

それでも胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。


古風で、不器用な人。ずるいわ。

ーー私も、愛してる。


けれど、もう少しだけ、このままでいたい。

言葉にしないことで守れるものが、ここに、確かにある気がした。


 


……でも、その静けさは、すぐに壊された。


「……聞こえたか?」


ユウトの声から、笑みが消えていた。

彼の視線が、じっと水平線の向こうを捉えている。


海が、ざわめいていた。


白い飛沫。

水面を這う、巨大な影。


嫌な予感が、胸の奥を締めつける。

この感覚は、忘れていない。


「……バレーナ?」


思わず、私は口にしていた。


でも違う。

あのときのものよりも、速く、鋭く、重い。


もっと深く、黒く、沈んだ怒りのような気配。


ユウトが、低くつぶやく。


「……つがい、かもしれない」


黒背のバレーナ。

あれには、もうひとつの影がいた。


「奴は、君が目を潰して、また現れた時に、君が……。

 もしつがいがいたのなら、復讐に来てもおかしくない」


彼の言葉に、私は小さく息を呑む。


波の先にあるそれは、明らかに意思を持ってこちらに向かっている。

まるで、過去の傷をなぞるようだった。

禍々しい黒い魔力をまとう、深海の影。


そして――

海が裂け、巨大な体が現れた。

その中心から、空の色さえ変わるような咆哮が響き渡る。

それは、大気を震わせるほどの声だった。


「……バレーナを、返せ」


そう――確かに聞こえた。

怒りと哀しみが混ざった、絶望のような声が。


私は、凍りついたように立ち尽くしていた。

その声は、私の心を、容赦なく抉ってくる。


でも、ここで立ち止まるわけにはいかない。

私たちは、また未来へ進まなければいけない。


私の気持ちをそっと後押しするように、

胸元のペンダントが、微かに光を灯していた。


私は彼の手を握り、空を見上げる。


きっとあれは、黒背のつがい。

過去に囚われた影が、私たちの未来を試している。


けれど、私はもう逃げない。

未来を、この手で選ぶと決めたから。

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