第19話 私は愛を選ぶ
彼の手を握ったまま、夜の街を抜ける。
冷たくて、汗ばんだその手の感触が、私を現実に引き戻していた。
これは夢じゃない。何百年も探し続けた“彼”の手だ。
もう絶対に離さない。
もう二度と、あの孤独の中には戻らない。
怒声と犬の鳴き声が、背後から近づいてくる。
でも、私の視線は彼の背中に釘付けだった。
ユウト。
記憶がなくても、あなたはやっぱり、あなたのまま。
――まっすぐで、少し不器用で、それでも人の痛みに敏感な人。
「黒髪の奴隷を捕らえろ!」
その声に、彼の手が一瞬だけ震えた。
彼の過去が、心の中でまだ血を流しているのが分かる。痛いほどに、伝わってくる。
「ユウト。」
振り返って、その瞳を見つめる。
彼の傷を少しでも包めるようにと願いながら。
「……俺は、なんでお前なんかと逃げてるんだろうな。」
その声は、自嘲でも、疑問でもなかった。
ただ、傷ついた人の心からぽろりとこぼれ落ちた、痛みの破片。
私は静かに微笑む。
その問いに、まっすぐ応えるために。
「あなたが生きるためよ。そして、私が、あなたを必要としているから。」
あなたを失った時、私は世界を壊した。
でも、今度は二人でーー。
夜風に灯りがかき消され、外の空気が広がる。
まだ兵士たちの気配は近くにある。鐘の音が耳を打つ。
でも、私の心は静かだった。
「こっち!」
そう言って、私は走り出す。
感じていたのだ。
わずかかも知れないが、彼の心に“希望”の灯が残っていることをーー
門が見える。
あと少しで街の外へ出られる。
でも、その前には兵士。
彼が不安そうに私を見る。
私はペンダントにそっと手を当てる。
父と母が託してくれた魔力。世界を壊した私に残された、最後の光。
「任せて。」
祈るように魔力を込める。
風を呼び、視界を裂く。塵が舞い、時間が止まったような瞬間。
私は、彼の手を強く引いた。
⸻
外の空気。夜風。星の気配。
私は振り返り、彼の顔をそっと見る。
「……ユウト、大丈夫?」
「……ああ。死ぬかと思ったけど、まだ生きてる。」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。
生きててくれて、ありがとう。
一緒にいてくれて、ありがとう。
「さあ、海へ行くわよ。」
そう言うと、彼は少しだけ戸惑って、こう返した。
「海なんて、本当にあるのかよ。」
私は頷く。
この手に握った“名前”が導く先に、必ず“本当”があると信じているから。
「あなたが呼べば、きっと応える。」
一瞬、彼の手がわずかに震えた。
迷いと、恐れと、それでも――私への信頼が、そこに宿っていた。
ゆっくりと、彼は頷いた。
夜空が、裂けた。
雲の隙間から、星が顔を出す。
天王星が、赤く瞬いていた。
あの日、彼が教えてくれた星の名。
今も、それは変わらず、私たちを見つめている。
そのときだった。
ペンダントが、ふっと光を放った。
胸の奥で、低く響く声がした。
――サクラ。
ーーサクラ。
私は一瞬で、その声を識った。
父。魔王、アドラメレクの声。
そして、母、アネモネの声。
父と……母。
二つの想いが、静かに重なっていた。
――サクラ……塩門へ向かえ
ーーかつて、アネモネが命を落とし、我が復讐が始まった地
ーーそこには神殿がある
ーー海を封じ、世界を裂いた、我が“罪の核”だ
ーーその封印を解かなければ
ーー本当の海には辿り着けぬ
ーーサクラよ……これは我らの罪
ーーそして、お前の“選択”だ
ーー未来を選び取れ。愛を選び取れ
――あの場所で、私は、愛するアドラメレクと別れることになった
――今度は、“始めるため”に行くの
――この罪は、私たちの罪
――あなたに託すわ
――サクラ……あなたなら、選び取れる。未来を
声はそこで、波のように消えていった。
ペンダントの光だけが、静かに脈打っている。
行こう。
私が滅ぼしてしまった世界を、今度は“二人で”取り戻すために。
たとえその先に、どんな試練が待っていたとしても
……私は、信じる。
あなたと一緒なら、未来を選べると。
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