第8話 何のために生きるか

 出港して三日。


 島は、もう水平線の向こうにかすんでいた。




 空は晴れ、風はよく、海はおだやかだった。


 帆に風をはらみ、船は音もなくすべるように進んでいく。


 甲板のあちこちには、洗濯物や乾かされた網が揺れ、波間に皆の笑い声が響いていた。






 島を出てから、少しずつではあるが、皆の私への態度が変わっていった。


 目が合えば軽く会釈され、時にはバケツを渡されたり、声をかけられたりすることもある。




 ユウトの護衛たちも、もはや私を警戒することはなかった。


 いや――むしろ、ひとりの“旅の仲間”として、認めてくれているようにさえ感じられた。




 その変化に、私は……悪い気は、しなかった。




 朝の陽を浴びながら、私は甲板の端に腰かけて、空を見上げた。


 どこまでも青く澄みきった空だった。




「ねえ、サクラお姉ちゃん!」




 声に振り返ると、小さな影がひょいと私の隣に現れた。


 黒背のバレーナに襲われ、漂泊することになった時、母親の腕に抱かれながら、泣いていた少年だ。




 彼は無邪気に笑いながら、私の隣にちょこんと座る。




「お姉ちゃんが、この船に乗ってて、よかった!」




「ふふ、そう? 船酔いしなかった?」




「ちょっとだけ。でも……お姉ちゃんがいると、なんか安心するんだ」




 その言葉に、私は少しだけ言葉を失った。




「……どうして?」




「だって、あのとき雨を降らせてくれたでしょ。お母さんが言ってたよ。“あれは、サクラ様が空にお願いしてくれたからだ”って」




 私は息を呑んだ。




 


 そのように見ていた人がいたのだ。あの雨を“救い”として記憶してくれていた人が。




「ありがとうね。あのとき、ほんとに助かったよ。お水、いっぱい飲めたし」




 レイは満面の笑みでそう言って、私の手をぎゅっと握った。




 ……私は、その小さな手の温もりに、何も言い返せなかった。




 “ありがとう”。


 それは、私という存在に向けられた、初めての感謝の言葉だった。




 魔王の娘だからでも、力を持っているからでもない。


 ただ、“サクラ”として、何かを成した私に対しての言葉。




 胸が熱くなった。




「……どういたしまして」




 私はそう言って、少年の頭をそっと撫でた。




 そのとき、空を見上げると、わずかに雲が流れていた。


 青空のすみに、薄く黒い筋が、まるで墨のようにたなびいていた。






 私はふと、海に目を落とす。






 風の流れが、変わっていた。潮の匂いも、かすかに生臭さを帯びている。


 そして、遠くの波の向こうに……背びれのような黒い影が、ゆっくりと動いていた。




 足音が、すぐ後ろで止まる。


 ユウトだ。




 彼は何も言わず、ただじっと海を見つめていた。




「……黒背のバレーナ。あの怪物、また来たな」




 その言葉に、私の胸が、わずかに波打った。




 皆の顔に、緊張が走る。




 黒い背が、海の表面にわずかに浮かび、また沈んだ。


 波がざわめき、空気の重みが変わる。潮のにおいに、血の気配が混じっていた。




 誰かが声を上げた。「何か見えたぞ!」


 ユウトの護衛たちが武器を手に駆け出し、港町の皆も慌てて甲板の荷を固定し始める。




 その中で、私はただ、静かに立ち尽くしていた。




 「また……来たのね」




 あのとき、私はバレーナの片目を焼いた。


 その傷が、憎しみを呼び寄せたのだろう。あの目には怒りが宿っていた。


 まるで、自分の存在すべてを呪うかのように。




 「おい、あれ……あいつじゃないか……」




 「……黒背のバレーナ……!」




 港町の人々がざわつき始める。怯えが広がり、誰もが後ずさる。




 もう迷うことはない。


 あの時、私は、力を使えば、魔王の娘であることが皆に知れ、特にユウトとの関係が壊れてしまうことが怖かった。


 でも、今は、そんなこと、迷う必要はないのだ。




 私は静かに頷いた。




 掌を開く。


 風が巻き、髪がふわりと持ち上がる。


 体の奥から、魔力が音もなく湧き上がる。




 すべてが、ただ自然だった。


 自分の中にある力を、自分の手で解き放つということが、これほど静かで、確かなものだとは思わなかった。




 バレーナが海面から跳ね上がる。


 その巨体が太陽を遮り、船全体に影が落ちる。




 鋭い牙。巨大な尾。


 そして、片目だけの深い眼光が、まっすぐ私を射抜いていた。




 「グオオオォォ――――ッ!」




 怒りと復讐の咆哮が、空を震わせた。




 だが、私は――動じなかった。




 右手から、紫色の魔力の奔流が解き放たれる。




 それは、炎でも雷でもなかった。


 色もない、光でもない、けれど確かに“焼き尽くす力”だった。




 バレーナの体がそれに触れた瞬間、時間が止まったように見えた。




 次の刹那。


 その巨体は一瞬で霧散し、灰となって、空に舞った。




 風がそれをさらい、船の上には静寂が戻った。




 音もなく、空が再び晴れる。




 海は、すでに何事もなかったように、ただ凪いでいた。




 




 ――そして、沈黙を破ったのは、少年の拍手だった。私に、「ありがとう」と言ってくれた子。




 それにつられるように、次第に甲板に歓声が広がっていく。




 「すげぇ……」




 「一瞬だった……」




 「サクラが……!」




 誰も、“魔王の娘”とは口にしなかった。


 ただ、私を、“サクラ”として呼んでくれた。




 その名前が、こんなにもあたたかく響くとは思わなかった。




 




 ユウトが、ゆっくりと歩み寄る。


 少しだけ笑って、私の肩に手を置いた。




 私は、その手の重みを、拒まなかった。




 「ありがとう、ユウト」




 それ以上は、もう何も言葉はいらなかった。




 私は、自分の名で立っている。


 ようやく、それを誇りに思える気がした。




 




 風が吹いた。


 海の匂いとともに、灰のかけらが空へと昇っていく。




 私は、初めて、自分のすべてを、受け入れることができた気がした。

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