第三節 祠の中の再会
《不明》
夢の中の祠の前で、少女はひとり、手を伸ばしていた。
濃霧のような空気がたちこめ、空も地も色を失っていた。
けれどその祠だけは、なぜか異様なまでに輪郭を保ち、まるで“そこだけが現実”であるかのように静かに佇んでいた。
少女――真宵の指が、その木扉に触れようとした瞬間。
誰かが、私の名前を呼んだ気がした。
――そして、もう一度。
「――真宵ちゃん、あかん」
低く、しかし静かな声が背後から届いた。
振り返ると、そこには九条が立っていた。
和服姿の彼は、しかし夢の霧を裂くように凜と立ち、表情に迷いの色はなかった。
「その扉を開けたら、戻れんようになる。君が誰なのか、自分がなにを求めてたのかすら、全部飲まれてまうで」
「……でも、ここには私の“答え”がある気がするの。だから……行かなきゃ」
真宵は苦しげに目を伏せた。
その目には焦りがあった。もう後戻りできないという恐怖と、それでも真実に触れたいという切実な願いがせめぎ合っていた。
「知りたいの。私の両親がなにを追ってたのか。澪が何を隠してたのか。あのとき、何が起こったのか……!」
「せやけどな――」
九条が踏み出そうとしたそのとき。
祠の扉が音もなく開いた。
そこから、ぬるりと何かが現れた。霧のように、夜のように、影のように。
あまりに滑らかで、あまりに異様な気配。
「……鵺」
その名を呟いたとたん、空気が変わった。
世界全体がざわめき、軋み、祠を中心に空間がひしゃげる。
黒い影はふわりと地を離れ、宙に浮かんで揺蕩っていた。
そこに浮かんだ顔は、月原澪のものだった。
けれどその瞳には、澪のものではない、底知れぬ虚無が広がっていた。
「九条朧。ようやく君と会えたね」
鵺の声は、耳元に直接届くような、いやに柔らかい響きだった。
真宵は言葉を失い、ただ祠の前に立ち尽くした。
「ここはね、君たちの願いが具現化する場所だよ。本当に欲しいものがあるならば、それを与えてあげよう。苦しまずに、悲しまなくてすむように――」
「また、そうやって人を騙すんかいな」
九条は目を細めて鵺を睨んだ。
その背筋には怒気ではなく、静かな覚悟が宿っていた。
「この子は、夢に逃げ込んだんやない。真実を、見つけに来たんや」
鵺はわずかに笑い、澪の顔が壊れた人形のように歪む。
「じゃあ、真宵。選びなよ。ここに残れば、ずっと君の知りたいものを“感じて”いら
れる。両親の笑顔も、澪の言葉も、全部、何度でも思い出せる。それとも、現実に戻って、何もかもを失ったまま歩くのかい?」
真宵は、鵺の言葉に、かすかに揺れた。
「私……私、本当に分からないの。お父さんとお母さんがなぜいなくなったのかも、澪がどこまで本当のことを言っていたのかも……何も分からないまま、現実に戻って、また何もできないまま、あの日々に戻るのが……怖いの……」
その言葉に、九条はそっと彼女の肩に手を置いた。
「真宵ちゃん、怖くてもええ。分からんままでもええ。けどな、目ぇ背けたら、そこで終わりや。
僕らは“分からん”を恐れるんやのうて、分かることを恐れてるだけや」
彼女の瞳が、ゆっくりと九条に向く。その目に宿ったのは、不安ではなかった。決意だった。
「……私、見届ける。ちゃんと、自分の目で」
鵺が、一瞬だけ、表情を止めた。
そして次の瞬間、黒い影がうねり、祠の上空に広がる。
「そう。ならば、僕も応えよう。君たちがそこまで言うなら
――真実を、すべて見せてあげる」
周囲の景色が一変する。空が砕け、地がひび割れ、祠は巨大な影の巣と化す。
澪の顔はぐにゃりと崩れ、複数の顔が交錯し、まるで百鬼夜行のような姿へと変貌する。
真宵が小さく悲鳴を上げた瞬間。
「真宵ちゃん、下がっとき」
九条の声が、その空気を切った。
その身に纏う空気が変わる。
静かな霊気が波紋のように広がり、和服の裾が風もないのにふわりと揺れた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「僕は、探偵・九条朧。でも今回はあえて、こう名乗らせてもらう。
僕の名は、陰陽師・九条朧。見えぬものを見通し、そして人の世の平穏を守りし者。
さぁ、人の願いと記憶を喰らう妖よ
――その虚ろを、今ここで、断たせてもらうで」
――幕は、上がる。
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