第7話


 この世界に来て二か月ほどになっただろうか。翡翠との道場稽古を終えた藍は、この日初めて屋敷の敷地内から外へと出た。屋敷は菖蒲が姫という立場であることから、その敷地はかなりの広さがある。ただ敷地の外も決して狭くはなかった。


「なんか注目されていますね、私たち」

「珍しいのですよ」


 この日は菖蒲と翡翠、そして加奈と一緒だった。当然のように菖蒲は藍の隣に立ち、その腕を引っ張っている。加奈は隣を歩く翡翠へと話かけていた。國を案内するという名目なので、あちこちを四人で歩き回る。ある程度歩いていると目に映る風景に共通点を感じた。この國にあるものは古い日本にあったそれと酷似している。


「藍見てください、あれが湯治場というものです。藍たちのところではお風呂、というのでしたよね」

「あぁ」


 入口に簾が掛けられており、その奥には更に入口が別れていた。性別でも分かれているが、共に入ることができるのもある。それは家族風呂のようなもので、貸し切りとして扱うらしい。この國にある湯治場は一つしかないものの、その建物は大きめだった。


「ここといい他の建物といい……本当に日本風よね」

「あぁ……どことなく懐かしい気にもなる」


 現代で残されていれば確実に国宝級のもの。そんな風に光景に驚いていると、菖蒲がこの建物についての由来を教えてくれた。


「これは狭間の世界を創り上げた始祖様たちがお創りになったものです。この國にはそうして創られ、残っているものがそのまま残っているのが多いのです」

「元人間だった鬼が創ったものか」

「もしかしてその時代にあったものだったりするのかもね」


 狭間が創られた時代、その時に始祖というのが日本から来た存在で、そこにあったものを模した。確かにそう考えればつじつまは合う。その時代から変えることなく形を守り続けているというのも、始祖を敬っているから。


「あの大きな樽には何が入っているの?」

「あれは桃酒が入っています。屋敷でも造っていますけれど、ここにいる妖たちが主に口にするのはこうした場所で造られているものが多いですね」


 現代で言えば熟成するというのだろうが、ここでは妖気をそこに溜めることで造られるものだ。アルコール成分に似たものがあるらしく、妖であっても酔うことができるらしい。一度藍も口にさせてもらったが、一口だけでもクラっときた。現世であってもかなり度数が高い酒の内に入る。美味しい酒ではあるけれど、それほど沢山飲むことはできない。


「姫様」

伍緑ごろくではありませんか? その顔はどうしましたか?」


 翡翠よりも背丈はないが藍よりは高い鬼の男が菖蒲に声を掛けてくる。伍緑と菖蒲が呼んだ男は、菖蒲に腕を取られている藍を見るなり、その視線を鋭くさせた。


「多少稽古に力が入ってしまっただけです。それよりも……本気なのですか、姫様」

「何のことですか?」

「そこにいる男です。見た目も軟弱。霊力があるからというだけで、姫様の伴侶が務まるとは思えません。始祖様がそうであっても、その男がそうであるとは限らないのですよ」


 伍緑の胸板は厚く、両腕の筋肉も発達していた。藍と対峙しようものならば、あっという間に投げ飛ばされてしまいそうだ。外見が貧弱であることは認めるし、菖蒲が藍を選んだのも霊力があるから。この時点で伍緑の言葉を翻すようなものを藍は持っていなかった。


「そうですね。始祖様と同じ存在がこの世界に在るとは私も思っておりませんよ」

「であるならどうして――」

「伍緑、私は姫。その想い、そこに見出した結果に異論があるといいますか?」


 笑みを浮かべていながらも、菖蒲の雰囲気はそれとは裏腹に冷たい空気を纏い始める。対する伍緑の顔は徐々に青ざめてきていた。


「伍緑」

「っ……でも俺の方が――」

「私は貴方ではだめなのだと、そう伝えたはずです」


 二人の会話から察するに、菖蒲と伍緑との間には俗に言う「お見合い」のようなやり取りがあったのだろう。そこで菖蒲が断りを入れた。伍緑が不満だったのかはわからないけれど、その地位に藍が収まることに異論があると言ったところか。

 これだから面倒だ。藍は二人から顔を背け、そのまま距離を取ろうとしたが、そううまく逃げられるわけもなく、菖蒲がより強く藍の腕を引っ張った。


「おい、菖蒲離してくれ」

「藍、貴方は私のものでしょう? 何故逃げるのですか?」

「……妖のいざこざに巻き込まれるのはごめんだ」

「それは諦めてください。私が姫であり、貴方はその伴侶となるのですから」


 藍の腕を己の腕の中にしまい込むようにして菖蒲が抱き着いてくる。更に鋭い視線を感じたが、もはやこれは菖蒲の言う通り諦めるしかないのだろう。肩を落とす藍に対し、菖蒲はそっと藍の纏う狩衣の首元を広げた。何をしているのかと訝しんでいると、菖蒲が首元に巻かれているはずの包帯を解き始める。


「やめろ、菖蒲!」

「っ」


 これだけはと、藍は声を荒げて菖蒲の手を止めた。ほんの一瞬、藍はそこから血の匂いが広がったのを感じ取る。その匂いは伍緑にも届いていた。


「伍緑、これが私の意志です。ご理解いただけました?」

「お、オレは……」

「さぁ藍、巻きなおして差し上げますね」

「……あんたが解いてどうするんだ」

「ごめんなさい。そうした方が手っ取り早かったものですから」


 ご満悦な様子の菖蒲は再び藍の手を取って、屋敷への道を歩き出した。散策はこれで終わりということだろう。


「屋敷内ならいざ知らず、って言ったのはあんただろう」

「うちの者は皆が知っていますからね。今回、分からぬようにとわざわざ外ににおわないような布を巻いていたのも、藍が不躾な目で見られるのが嫌だと思ったからですよ。私としてはそのままでも問題ありませんでしたけれど」


 いつもの状態で屋敷の外を出れば、誰もが菖蒲の匂いを藍からかぎ取る。そういう相手だと認識する。それではずっと視線を受け続けるので、最初くらいは純粋に散歩をしてもいいのではという気遣いだった。提案したのは翡翠で、菖蒲はどちらもでないというよりは、むしろそのままの方がいいというスタンスだった。翡翠に諭されて、藍からもその方がいいと言われたため、仕方なく受け入れただけだ。


「ですが藍もお分かりになったでしょう? あれで伍緑も何もいいません」

「強制的だな」

「強制的であろうと何であろうと、それが我ら鬼の妖……貴方もいずれは……」

「菖蒲?」

「いいえ、何でもありません。さぁ帰りましょう」


 

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