第10話 リニアコライダーの夜

 岩手県北上山地の地下、約300メートル。そこには、神々の伽藍がらんを思わせる巨大で長いトンネルが広がっていた。温度と湿度が完璧に管理された空気は、微かなオゾンの匂いを運び、クリーンルーム用の無塵服を通しても肌にその清浄さが伝わってくる。

「本当に間に合ったのね」

 エレーナが、ほとんど吐息のような声で呟いた。国際直線型加速器リニアコライダー(ILC)本体のコミッショニングが始まる直前、最後の主要コンポーネントが搬入されたのは、わずか一ヶ月前のことだ。まさに綱渡りの工程だった。

「僕もいまだに信じられない」と翔は応じた。

 三年間――

 エレーナと共にプランクスケール干渉の必要性を訴えてから、それだけの時が過ぎていた。彼の脳裏に、この間の奮闘が蘇る。

〈プロジェクト・ジェネシス〉の始動が決定したあの日から実験前夜のこの瞬間まで、翔とエレーナは純粋な知の探究から泥臭い現実との闘争へと移行していた。

 まず彼らを待っていたのは、別途建設が進められていたILC計画という巨大な官僚機構との終わりなき折衝だった。はじめは実証実験にエレーナが提案したLHCに改造を加えて使用する予定だったが、ILCを使用できる目処がついたため、急遽その予定を変更していた。

 しかしILCの事務局であるKEKに加えCERNの後ろ盾があったとはいえ、『ヒッグス粒子の精密測定』というILC本来の計画への寄生は、その目的達成のために全力を尽くす各国の委員から現場レベルまで、凄まじい批判と抵抗の嵐を受けていた。何十年もかけて最適化されてきた設計図に〈ジェネシス検出器〉という〝異物〟を追加で埋め込む作業は、無数の政治的・技術的問題を噴出させたのだ。もっともそれは当然のことではあったが、二人はなんとか自分たちの実験を滑り込ませるため、今度は各国の主任技術者や予算委員会の委員たちを、データとシミュレーションを武器に説き伏せて回らねばならなかった。

 建設が始まると、二人の立場は数百人の技術者を率いるプロジェクトマネージャーへと変貌した。翔は自らの理論の根幹であるアルゴリズムを、ハードウェアに実装するための設計レビューに明け暮れた。それは抽象的な数式を、公差や素材強度、消費電力といった現実の制約に落とし込む苦痛な作業の連続だった。一方エレーナは、CERNとKEK、そして日米欧の企業から派遣された混成チーム間の調整役を一手に引き受けた。彼女の母国語であるロシア語に加え、英語、フランス語、そして時に覚えたての日本語を操り、文化や価値観の違いから生じる衝突の緩衝材となった。

 しかしその間も、世界中の物理学者たちからの挑戦は続いた。〈自己展開宇宙仮説〉のわずかな綻びを突く反証論文が発表されるたびに、実験パラメータの再計算とシミュレーションのやり直しを要求された。それは科学界の健全なプロセスとはいえ、ILCの建設スケジュールに追われる二人には、再反論に数ヶ月もかけて悠長に実験を行う時間的余裕はない。それでも世界中から届く挑戦状は二人に極度のプレッシャーを与え、疲弊させていた。

 そうして四苦八苦しながらも、彼らは実験実現に向けてただひたすらに走り続けていた。三年間という月日は、過酷ながらもあっという間に過ぎ去った。

 翔とエレーナは、トンネルの中心に配置された円筒形の構造物――〈ジェネシス検出器〉を見上げていた。直径、高さ、共に15メートル。無数のケーブルと冷却パイプが、銀色の巨人から神経や血管のように伸びている。

 全長31キロメートルに及ぶ直線状の巨大加速器、ILC。その相互作用点には、本来の目的であるヒッグス粒子の精密測定を行うために巨大な汎用測定器が鎮座していたが、今はその鳴りを潜めている。ILCの衝突点はプッシュプル機構を採用しており、一台がビームライン上で実験を行う間、もう一台は隣接する待機ホールで調整を行うことが可能となる仕組みだった。そして今、その巨大な汎用測定器を待機ホールへと押しのけて衝突点を一時的に占有しているのが、この〈ジェネシス検出器〉だった。

 それは本流の検出器に比べるとあまりに小ぶりで、正規の実験プログラムの合間を縫って稼働する、いわばゲリラ的な異物感を放っている。しかし、その内部構造は、二つの対立していた技術思想が見事に融合した、汎用機では捉えきれない先鋭的な技術が凝縮されていた。

 まず、衝突点の心臓部には、KEKがSuperKEKBで培ったビームをナノメートル単位で絞り込む超精密技術が応用されている。そして、その衝突を幾重にも取り囲む層状の機構は、CERNがLHC実験で積み上げた知見の結晶――内側から順に、飛跡検出器、電磁カロリーメータ、ハドロンカロリーメータ、そして最外層のミューオン検出器が配置されている。これらのセンサー群は、日本側にその核心技術が見えないよう、意図的にブラックボックス化されている。

 地下深くに掘られたトンネルの両端から、電子と陽電子のビームがそれぞれ光速近くまで加速され、この場所で正面衝突する。その加速を担うのは、絶対零度近くまで冷却された数千基の超伝導加速空洞だ。〈ジェネシス検出器〉は、そこで発生したマイクロブラックホールが蒸発する際に放出されるであろう、あらゆる粒子――光子、電子、陽子などのエネルギーや飛跡を捉えるための、超高感度の聴診器となるのだ。

「ここの空間歪曲センサーの較正、あなたの量子エラー訂正コードのアルゴリズムを応用してるものもあるそうね」エレーナが、検出器の下部構造を顎で示した。「皮肉だわ。あなたの理論の正しさを証明するために、あなたの理論が正しいことを前提とした装置を使っている」

「自己参照的で気に入ってるよ」

 翔の視線は、ボルトの一本一本、ケーブルの配線の一筋まで、まるで自らの脳の延長であるかのように、装置の全てを舐めるように追っていた。頭の中にあった抽象的なアルゴリズムが、質量と体積を持つ鋼鉄の現実として目の前にある。その事実に、彼は改めて言いようのない畏怖と、逃れようのない責任の重さを感じていた。

 翔が予測している、プランクスケールへの干渉に至る余剰次元へと繋がる時空への抜け道。ILCの1TeVというエネルギーは、CERNのLHCが生み出す13.6TeVという膨大なエネルギーには遥かに及ばない。しかし陽子という巨大な複合粒子を衝突させるLHCと違い、ILCは電子と陽電子という小さな基本粒子を衝突させることができる、その圧倒的な衝突精度こそが、この実験の成否を分けている。今回ILCは、たった1TeVの衝突を、一瞬の揺らぎもなく、寸分違わぬ一点に、繰り返し、繰り返し叩き込み続ける計画だった。それはブランコを漕ぐ子供の背中を完璧なタイミングで押し続ける行為に似ている。一押し一押しの力は小さい。けれどその精密な共振が、やがてエネルギーを指数関数的に増幅させ、時空そのものを揺さぶり、余剰次元に拡散した重力の抜け道を軽やかに通り抜け、プランクスケールという前人未到の領域へと到達させるのだ。

 地上の合同コントロールセンターは、沸々とした熱狂に包まれていた。実験開始まで24時間。正面の巨大なメインスクリーンには、ILCの加速器トンネル内の真空度や超伝導電磁石の温度が、正常を示す緑色の数値で埋め尽くされている。世界中から集まった物理学者や技術者たちが、それぞれのコンソールの前で最終確認作業に没頭していた。

「――安全性の最終確認を開始する」

 凛とした声が響き、全ての視線が会議テーブルの中央に立つ男に集まった。御子柴教授だ。彼はプロジェクト全体の安全管理責任者として、この歴史的な実験のゲーキャッパーを務めていた。

「御子柴博士。全てのパラメータはシミュレーションの許容範囲内です。これ以上の確認は、もはや時間の浪費かと」

 CERN所長のシルヴィ・モローが、穏やかだが有無を言わせぬ口調で進言する。だが、御子柴教授は首を横に振った。

「シルヴィ博士。これは我々だけの問題ではない。このILC計画は、世界中の信頼と、何十年という科学者の努力、そして総額8,000億円を超える予算の上に成り立っている。ホスト国である我が国は、岐阜のハイパーカミオカンデに続き、この計画に科学技術予算の二割以上を拠出した。ノーベル賞受賞者たちから『基礎研究を軽視している』と長年突き上げられてきた政府が、ようやく知への投資へと舵を切った結果だ。その国家の威信をかけた国際プロジェクト全体を、計算不能なリスクから守る義務が私にはある」

「御子柴博士。この際ですからこっそり教えてください。(本気で言っているのですか? この地球の片隅にある、世界地図でみたらあまりに小さな施設で起きるかもしれないトラブルが真空崩壊を引き起こし、この無限の宇宙全体を破滅させると?)」

「可能性はゼロではない、と申し上げている」御子柴教授はブレなかった。「〈自己展開宇宙仮説〉にはリスク計算不能な領域があまりにも多い。だが、それでも我々KEKは可能な限りのハザード計算を独自に行ってきた。たしかにリスクは無視できるレベルの範囲内ではありそうだ。だが可能性がゼロではないというその結果を無視することは、私にはできない」

 彼の視線は、装置起動の準備に勤しむ翔を真っ直ぐ見つめていた。

「そのうえで、ここまで来たからには、KEKの——国の威信にかけて実験を成功させる。それだけだ」

 頑固な日本人をみて、シルヴィ所長はふっと笑みを漏らし「サムライ、ね」と呟いた。

 実験開始まで残り三時間。

 喧騒を離れたコントロールセンター隣接の仮眠室で、翔は一人、椅子に座っていた。手のひらには、あの黒い石がある。幼少期に拾った、何の変哲もない、ただ滑らかなだけの石。不意にドアがノックされ、エレーナが入ってきた。彼女もまた、巨大なプレッシャーから逃れる場所を探していたようだ。

 しばらくの沈黙の後、彼女が口を開いた。

「ねえ、翔。今さらかもしれなけど、一つだけ不安があるの。聞いてくれない?」

「どうぞ」

「この〈ジェネシス検出器〉がただの高価な鉄の塊だった、という可能性について」

「奇遇だね。ぼくも今、そのことについて考えていた」

 科学者がそのキャリアのどこかで必ず直面する根源的な不安。翔は、手のひらの石に視線を落としたまま、静かに続けた。

「でも、それならそれで仕方ない。僕たちは、問いかけるところまでは辿り着いた。それは何もしないで答えを待つより、ずっといい」

 彼は顔を上げ、初めてエレーナに、自らの奥深くにある風景の一端を語った。

「子供の頃、世界がまるで書きかけの絵みたいに見えたことがあるんだ。完璧じゃない、どこか不自然な……。物理法則という絵の具が、まだ塗り重ねられるのを待っているような、そんな感覚。僕が知りたいのは、その絵の完成形じゃない。だれが、どんなルールで、その絵筆を握っているのか、ということなんだ」

 エレーナは何も言わず、彼の言葉を聞いていた。彼女もまた、時空が離散的な原子から成るという自らの理論に人生を捧げてきた求道者だった。翔が抱える宇宙の根源に対する孤独な渇望を、彼女は痛いほど理解できた。二人の間に流れるのは、共に深淵を覗き込む者だけが分かち合える、静かで強い共感だった。

 午前5時59分。コントロールセンターは、呼吸の音さえ憚られるほどの静寂に包まれていた。

 メインスクリーンに表示されたカウントダウンの赤い数字が、無慈悲に時を刻んでいる。

「全システム、グリーン」

「ビーム軌道、安定」

「〈ジェネシス検出器〉、スタンバイ」

 オペレーターたちの冷静な報告だけが、静寂を破る。

 翔とエレーナは、隣り合ったコンソールに向かっていた。二人の指は、実験を開始する最終シーケンスの、エンターキーの上に置かれている。御子柴教授が、腕を組んだまま険しい表情でモニターを見つめている。彼の視線の先、時空の歪みをリアルタイムで表示するパラメータのグラフは、まだ平坦な直線を描いている。

 翔とエレーナの視線が、一瞬だけ交錯した。

 言葉はない。

 ただ、互いの覚悟を確認する。

「……Three, Two, One, Zero」

 合成音声がゼロを告げた瞬間、二人はキーを押し込んだ。

 地鳴りのような、それでいて身体の芯にだけ響く重低音が、コントロールセンター全体を揺るがした。日本の東北、その地下深くで、人類が初めて手にする規模のエネルギーが、光速近くまで加速された粒子の束となって、一点に集中しようとしていた。

 翔の目の前のモニターで、エネルギー値を示すグラフの線が、垂直に近い角度で、天へと駆け上がり始める。


 夜が、明けようとしていた。

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