第7話 暗黒の輪郭
翔の沈黙こそがエレーナにとっては最高の答えだった。
「ねぇ、あなたの狂った宇宙を覗かせて」彼女の声は、歓喜を湛えていた。「録画された記録を見るだけじゃなくて、パラメータをいくつか変更して、再計算させてほしいの。エラーの発生率を意図的に引き上げて、何が起きるか見させてもらえない?」
興奮気味のエレーナの言葉だったが、翔は自身の内から立ち上る高揚感とは裏腹に、静かに首を横に振った。
「実をいうと、大規模な新規計算を行うための僕の『シュミラクラ』高優先度アクセス権は数日前から停止されているんだ」
翔の言葉に、エレーナの動きが凍りついた。さっきまで爛々と輝いていた瞳から、一瞬にして光が消える。彼女は、まるで最高のパズルを解く直前に盤ごとひっくり返されたかのように、信じられないという表情で翔を見つめた。そして、低い、押し殺した声で問いかける。
「説明して」
「御子柴教授の許容範囲を超える理論を提示したことに加え、本来の研究を中断し『シミュラクラ』の計算資源をこのシミュレーションに転用した。結果としてアクセス権に制限がかかり、現在は新規ジョブの実行が不可能になっている」
「冗談でしょ?」エレーナの表情から、冷たい怒りの色が現れた。「理論の正しさを検証する手段が目の前にあるのに、組織の都合でそれに触れることすらできないと?」
「加えて例のプレプリントに御子柴教授は大激怒。そのうち僕には懲戒委員会の召集通知が届くだろう」
「馬鹿げてる。KEKは物理学の研究所じゃなくて、官僚を養成する機関だったのね」
エレーナの怒りは、翔にとっては何よりの慰めだった。彼女が本気で怒っているのは、この理論が――そしてその先に広がる宇宙の真理が、くだらない人間社会のルールによって探求を阻まれているという、その事実に対してだったからだ。
「もっとも」と、翔は口の端をわずかに吊り上げた。「高優先度アクセス権が停止される前に、すでに必要な計算資源は確保していた」
エレーナは、翔の言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
「新規予約はできない。でも、すでに予約済みのジョブなら使用可能」
翔が補足すると、彼女の表情が、氷のような怒りから驚愕へ、そして次の瞬間、先ほどの少女の顔をした彼女が戻ってきた。
「脅かさないで。あなた狂ってるんじゃない?」そしてホッとした様子で。「それで、次に予約した日時はいつなの?」
「今日これから。だから改めて来てもらったんだ」
「最高じゃない」エレーナの声は今にも飛び跳ねそうなほど明るい。「じゃあ早速、はじめられる?」
彼女は再びディスプレイに向き直る。
翔は頷き、コンソールへと指を走らせた。御子柴教授が剥奪した高優先度アクセス権は、厳密に言えばジョブの新規登録権限のみ。実行キューに存在する予約済みジョブのパラメータ変更権限までは、管理者の思考が及んでいなかったらしい。システムの官僚主義的な階層構造が、皮肉にも翔の探求の自由を担保した形だ。
エレーナは、まるで渇望していた泉の水を飲むかのように、ディスプレイに表示された『ジェネシス・コード』のソースツリーを貪るように凝視しはじめた。指が宙をなぞり、その目が膨大なコードの奔流を高速でスキャンしていく。
「……基本的な構造は、SU(3)×SU(2)×U(1)のゲージ群が創発するネットワークを自己組織化させる設計思想ね。標準模型への追従性は悪くない。けれど安定性が不自然すぎる。まるで後付けの神の手みたい」
エレーナの呟きは、翔への問いかけですらない。ディスプレイに流れるソースコードと対話しているかのようだ。彼女が指摘しているのは、このシミュレーション宇宙が高次元の自由度を持ちながらも、なぜ低エネルギー領域で我々が知る三次元空間と安定した物理法則を維持できるのか、という根本的な問題だ。
「その『神の手』の正体を見せてもらおうかしら」挑戦的な笑みを浮かべ、エレーナは翔に向き直った。「あなたの理論の核心――時空の自己修復メカニズム。そのパラメータはどこ?」
「ここだ」翔は、コードの中枢にある『量子エラー訂正コード』のセクションをハイライトした。彼の理論では、プランクスケールで生じる情報の
「ただ効率を下げるだけじゃ、ノイズが増えるだけかもしれない。ループ量子重力理論では、時空はプランクスケールの原子が繋がったネットワークとして考える」
彼女の瞳が、ディスプレイの向こうにある純粋な数学的構造を見据えていた。
「エラーの発生そのものより、エラーが隣接するノードへどう影響を及ぼすか、その相関を制御すべきよ。エラー訂正のプロセスに、局所性を破るような微小なバイアスをかけることはできる?」
翔は目を見張った。それは、超ひも理論の滑らかな背景の上で思考してきた彼にはない発想だった。時空を離散的なネットワークと捉えるエレーナだからこその、鋭い指摘。背景独立性を目指す彼女の思想が、彼の理論の『背景』そのものに、新たなメスを入れようとしていた。
「……可能だ」数秒の思索の後、翔は確信を持って応じた。「やってみよう」
コマンドが実行される。
翔が確保していた計算ジョブが起動し、『シミュラクラ』の膨大なプロセッサ群が、新たな宇宙を計算し始めた。二人は息を飲み、ディスプレイに展開される光景を見守る。
無から生まれたエネルギーの揺らぎが、指数関数的に空間を押し広げていく。インフレーションの名で呼ばれる、宇宙最古の爆発。やがてエネルギーは素粒子へと姿を変え、光と闇が分かたれる。バリオン音響振動の痕跡が太古の宇宙の微かな木霊のように浮かび上がり、やがて重力はそのわずかなムラを種として、物質を執拗に引き寄せ始めた。
数億年の時間が数分で過ぎていく。ディスプレイ上には、宇宙の大規模構造――フィラメントと呼ばれる巨大なガスの糸が、蜘蛛の巣のように宇宙全体を編み上げていく。その結節点に、最初の銀河が産声を上げた。
「……見事なものね」エレーナが感嘆の息を漏らす。
翔は無言で、ディスプレイに映る一つの渦巻銀河を拡大する。数千億の恒星が、壮麗な光の渦を描いていた。その銀河の外縁部を周回する一つの恒星にカーソルを合わせ、その回転速度を算出する。
そして、沈黙した。
「どうしたの?」エレーナが翔の異変に気づき、ディスプレイを覗き込む。そこに表示された数値を見て、彼女もまた言葉を失った。
「……速すぎる」
銀河の外縁部を回る恒星の速度が、中心部のそれとほとんど変わらない。もし、銀河の質量が目に見える恒星やガスの総和であるならば、外側の星々は遠心力に負けて、とっくに銀河系から振り飛ばされていなければならなかった。
現実の宇宙で観測されている『銀河回転問題』。その不可解な現象が、シミュレーションの中で完璧に再現されていた。
「なぜ……」翔は、自らが創り出した宇宙の謎に、呆然と呟いた。
その時、鋭く息を飲んだのはエレーナだった。
「天野博士」
「翔でいい」
「翔、待って。その銀河の重力ポテンシャル図と、シミュレーションの『エラー・マップ』を重ねて表示できる?」
エラー・マップ。それは量子エラー訂正コードが修復しきれなかった、あるいは修復の過程で生じた、時空情報の微小な傷跡の分布図だ。翔がコマンドを打ち込むと、銀河の映像に半透明の靄のようなデータが重なった。そして戦慄する。
恒星やガスが存在する領域を、遥かに大きく包み込むように、エラーの靄が濃密なハローを形成している。そして観測された異常な重力効果は、そのエラーが集中している領域と、驚くほどの重なりを見せている。
「物質が存在すること自体が、周囲の情報空間に負荷をかける……」翔の声は、乾いていた。「その結果生じた情報の歪み、ネットワークの構造的欠陥が、見かけ上の追加重力として観測されている……」
彼は顔を上げた。その目は、エレーナを通り越し、その背後にある宇宙の真理そのものを見ているようだった。
「ダークマターは、粒子じゃない。物質が時空の基底情報に刻み込んだ、『情報の影』なんだ」
エレーナは、その結論の持つ途方もない意味に打ち震えた。未知の素粒子を探す、世界中の巨大な実験施設。その何十年もの努力が全て見当違いだったと、このシミュレーションは告げている。
「エリック・フェルリンデ……」
彼女の唇からこぼれたオランダの物理学者の名は、主流のコミュニティでは異端の代名詞だった。重力は自然界の基本的な力ではなく、より根源的な量子情報――特に量子エンタングルメントが持つ情報エントロピーから創発する現象だとする、あまりに過激な理論を提唱した人物。
「フェルリンデは、ダークマターの正体を、通常の物質が存在することで真空の量子情報に生じる『歪み』だと考えた」エレーナは続ける。「その情報の歪みが生む、見かけ上の追加重力だと。彼の理論はあまりに思弁的で、多くの問題を抱えたまま放置されている不完全な先駆者よ。けど……」
彼女はそこで言葉を切り、翔の方へと顔を向けた。
「あなたのモデルは彼のアイデアの先を行っている。あなたはその情報の歪みが、なぜ、どのようにして発生するのかを、アルゴリズムのレベルで完全に記述してしまったのかもしれない」
その指摘は、翔の思考をさらに加速させた。そうだ、ダークマターが『情報の影』なのだとしたら、電磁気的な実体を持たず、重力にのみ痕跡を遺す理由も、そこにある。
「待って」しかし、翔の思考を遮ったのはエレーナの冷静な声だった。「仮にダークマターの問題を解決したとして、もう一つの巨大な謎が残るわ。あなたの『完璧な』自己展開アルゴリズムは、なぜ宇宙の加速膨張を引き起こすダークエネルギー――正の宇宙定数を許容しているの? それとも、これも計算上の『バグ』だとでも言うつもり?」
エレーナの問いは、祝杯を上げるにはまだ早いという、科学者としての冷徹な宣言だった。翔は、その挑戦的な視線を淡々と受け止めた。
「バグじゃない。――仕様だ」
翔の指が再びキーボードの上で踊り始める。彼は『ジェネシス・コード』に対して、今までしたことのない問いを発していた。
「解析モードを切り替える。宇宙全体のエネルギー収支を再計算。ただし、物質や放射のエネルギーだけじゃない。宇宙が構造を形成し、維持していくプロセスそのものにかかる、システム全体の計算コストをエネルギーとして定量化する」
「……構造化のコスト、ですって?」エレーナが訝しげに呟く。「おもしろい。やってみて」
『シミュラクラ』の膨大な演算リソースが、その一つの問いに集中していく。サブルームの冷却ファンの音がわずかに唸りを上げた。ディスプレイに表示されていた宇宙の映像が消え、代わりに一本のグラフがリアルタイムで描画されていく。横軸は、宇宙の誕生からの時間。縦軸は、宇宙に存在する総エネルギー密度だ。
グラフの線は、まずビッグバン直後の高温・高密度状態から急激に下降する。宇宙の膨張に伴い、物質や放射のエネルギー密度が希薄になっていく、標準的な宇宙モデルが描く通りのカーブだ。だが、数十億年が経過したあたりから奇妙なことが起こり始めた。
下降を続けていたはずの線が緩やかに水平になり、やがて僅かながら、しかし確実に、上向きに反転したのだ。
「……ありえない」翔が呻いた。
宇宙の膨張は、物質の相互重力によってブレーキがかかるはずだった。しかしグラフが示しているのは、その正反対の現象。宇宙の膨張を加速させる未知のエネルギーが、時間と共に優勢になっている。
エレーナは息も忘れ、画面を凝視していた。彼女はグラフのデータソースを検証し、その『未知のエネルギー』の正体を追う。やがて、彼女は凍り付いたような声で言った。
「このエネルギーは……どこからともなく湧いて出ているわけじゃない。宇宙の構造化と完全に相関している」
彼女の指示に従って翔がディスプレイに表示させたのは、シミュレーション宇宙における銀河フィラメント——つまり大規模構造の体積と、謎のエネルギー密度の関係を示す散布図だった。点は完璧な直線を描いていた。宇宙に構造が生まれ、その体積が増えるほど、謎のエネルギーも増大していく。
それは、宇宙が自らをより複雑な構造へと進化させる過程で、必然的に生じるエネルギーのようにみえた。システムが自己を維持し、展開していくための、根本的な駆動力。いわば『構造化の余剰エネルギー』。そして、その振る舞いは、実際の宇宙の膨張を加速させているとされるダークエネルギーの性質と、恐ろしい精度で一致していたのだ。
「パラメータは、追加していない……」翔は、自分の声が遠くに聞こえるような感覚に襲われた。「何も足していないんだ。ただ、宇宙が自らを実行し、構造化していく。そのプロセス自体が、暗黒のエネルギーを生み出している……」
静寂が戻ったサブルームで、二人は完成したグラフを前に立ち尽くしていた。それは、現代宇宙論が抱える二つの巨大な暗黒――質量の85%を占めるダークマターと、エネルギーの68%を占めるダークエネルギーの正体を、一つの理論、一つのアルゴリズムが、何一つ追加の仮定を置くことなく説明してしまったことを示す、動かぬ証拠だった。
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