第5話 背景からの創発
CERNオフィス棟の一室で、エレーナはダウンロードした一つの
『自己展開宇宙仮説』
著者は天野翔、KEK所属。
彼女は飛行機を手配するまでの一瞬の間に、一度、論文に記載されていた翔のメールアドレスをクリックし、新規のメッセージウィンドウを開いていた。明滅するカーソルを前に、指が自動的に動き出す。
「拝啓、天野翔博士。あなたの仮説を拝読しました。非常に興味深い着想ですが、いくつか根本的な疑問点があります――」
そこまで打ち込んで、エレーナは無意識に指を止めた。その動きは、まるで致命的なエラーを検知したプログラムの緊急停止にも似ていたかもしれない。そして彼女は打ち込んだばかりの凡庸な文字列を、一つの単語も残さず消し去った。
違う。
画面に浮かぶ論文のキーワード群が、彼女の思考を嘲笑っているかのようだ。
『自己参照』
『オートポイエーシス』
『組織的閉鎖性』
これらは物理学の言語ではない。生命論か、あるいは情報哲学のターミノロジーだ。こんな単語を物理学の土俵に持ち込む人間に、メールで仮説の正誤を問うて何になる? 現時点で私が問いたいのはロジックの
物理学は停滞している。
超ひも理論はランドスケープの霧の中に迷い込み 、自らが信奉するループ量子重力理論もまた、スピンフォームの計算の複雑さと古典的時空を再現できないという壁の前で足踏みを続けている。
この息苦しい閉塞感。
その中で現れた天野翔の論文は、狂気の戯言か、あるいは全てを破壊し再構築する劇薬か。
エレーナはメールクライアントを閉じた。代わりにインターネットブラウザを起動させ、躊躇なく、そして衝動に身を委ね、飛行機の予約サイトへと飛ぶ。私が求めているのは、テキストによる低速・低解像度の通信ではない。相手の思考、熱量、狂気、そのすべてをパラメータとして取り込む、広帯域の直接観測だ。
◇
数日後、天野翔はKEKの研究棟の片隅に追いやられた自身の研究スペースで、ホワイトボードと睨み合っていた。そこは、数式と奇妙な図形で埋め尽くされている。再帰的に自身を呼び出す関数の構造、自己を参照するポインタで繋がれたネットワーク図、そして中央には大きく、結城聡の講義から拝借した言葉――
『オートポイエーシス』
集中していた中、不意に、背後に人の気配がした。振り向くと、そこに一人の女性が立っていた。プラチナブロンドの髪を無造作に束ね、透き通るアイスブルーの瞳は、まるで被写体の内部構造をレントゲンのように見透かさんとするかのように、ホワイトボードを射抜いている。ドアが開いた音すら気付かなかった。一方の彼女も翔の存在を完全に無視し、ゆっくりとホワイトボードに近づくと、数式、ネットワーク図、そして異質な単語群を驚きの瞳で——しかし徐々に怪訝に歪ませながら、その内容に目を走らせていく。
「
ロシア語だ。翔はロシア語がわからない。
「あの」と、日本語訛りの強い英語で翔は彼女に声をかけた。すると彼女は、軽蔑とも憐憫ともつかない、複雑な光をその瞳に宿して振り返る。
「あなたが天野博士?」彼女は、僅かなスラヴ系の訛りがある流暢な英語で、静かに、しかし刃物のように鋭く言った。「背景依存から逃れるために、生命論に助けを乞うだなんて。あなたは自分が何をしているか、本当に理解しているの?」
そして辛辣に、彼女は続ける。
「これは物理学なんかじゃない。超ひも理論狂信者が苦し紛れに書いた壮大な現実逃避、学問としてのカテゴリーエラーよ。KEKには苦言が殺到するでしょうね」
凛とした声。単語一つ一つに宿る確固たる知性。そして超ひも理論研究者をなんのためらいもなく侮辱するプライド。国際会議の場で御子柴教授が何度も論戦を交わしていた、最も手厳しい論敵の一人。それ以外にも、数多のサイエンス誌で翔は何度も彼女のその美貌を目にしている。さすがに驚きを隠せない。CERNのループ量子重力理論の旗手。
「……エレーナ・イワノワ博士」
そんな彼女が、どうして僕なんかの名前を。どうして急にこんな場所で。戸惑う翔を一瞥したエレーナは、再びホワイトボードに視線を戻した。
「あなたがアップロードしたプレプリントを読んだわ。興味深いけれど、致命的な欠陥を抱えた思考実験。私はそう結論づけたのだけれど」
「……それを言うために、わざわざこの研究室へ?」
「そうよ。悪い?」
そんなこと、メールで済ませればいいのではないか。翔がそう言おうとしたのだと察してか、初対面にも関わらず、互いに自己紹介も社交辞令もなく、彼女は挑戦的に切り出した。
「あなたの仮説――いえ、単なる突飛な空想は、結局のところ10次元という時空の『舞台』を前提にしている 。その上でアルゴリズムが動くというのなら、それは超ひも理論が抱える背景依存性の問題から一歩も歩み出ることに成功していない。時空というあらかじめ用意された背景の上で踊る、ただの人形劇に過ぎないわ」
エレーナが目の前にいる状況をいまだ飲み込めずにいた翔だったが、脳みそから目の前の議論以外の無駄な思考が一斉に排除され、研究者としてのスイッチが入る。
「その舞台自体が、劇の進行によって生成されるとしたら?」
「詭弁ね」エレーナは鼻で笑った。「私たちの理論は、あなたたちのように都合の良い背景を仮定しない。時空そのものが、プランクスケールで相互作用する量子の泡――スピンネットワークから『創発』する 。この背景独立性こそが、真の量子重力理論が満たすべき最低条件よ」
彼女の言葉は、自らの理論的支柱への絶対的な自信に満ちていた。
「確かに背景独立性は
「時間の問題よ」
「それを言うなら僕の仮説も同じだ」
二人の視線が真空中で火花を散らす素粒子のように衝突した。それぞれが信じる真理の弱点を突き、互いに一歩も譲らない。少しの沈黙ののち、彼女はホワイトボードを指差した。
「あなたの言う奇妙なアルゴリズムが自己参照を繰り返し、時空や素粒子を生成するのだと仮定する。それでも、最も本質的な問いが残る」
彼女の瞳が、冷徹な光を帯びた。
「天野博士。そのアルゴリズムは、だれが、あるいはなにが実行しているの? あなたの宇宙の『CPU』はどこにあるというの?」
エレーナの問いは、その答えを知らない者の聞き方ではなかった。論文に書かれた『外部実行者はいない』という結論を咀嚼した上で、その答えがもたらす致命的な矛盾を突きつけ、論理的に追い詰めるために仕掛けられた、彼女の精緻で誘導的な論述の罠であることは明白だった。この誘導に従って翔が「宇宙自身だ」と答えた瞬間、彼女はデジタル物理学の亡霊たちを召喚し、彼女が脆弱な空想と評価しているこの離散的モデルを採用している仮説を仕留める手筈なのだろう。先の御子柴教授と同じやり方だ。それでは話は噛み合わない。この仮説はただただ卑下されて終わる。
翔は、敢えて答えなかった。
彼女が次にどのカードを切るかは分かりきっている。ローレンツ対称性、ベルの定理。わかっている中、わざわざ彼女が仕掛けたゲームに乗る必要はない。その手には乗らないという意図した沈黙。そうして相手に次の手を打たせ、その上でカウンターを狙うための、計算された数秒間の待機。
一方のエレーナは、翔のその沈黙の意図を測りかね、一瞬、彼が詰みを自覚し敗北を認めたのだと解釈した。しかし、だとしたら、この胸に渦巻く違和感はいったいなんだろう。彼は私が欲しい何かを持っているような気がしてならない——これで議論が終わりなんてありえない。
エレーナの視線が、ホワイトボードの奇妙な単語群に引き寄せられていく。
『オートポイエーシス』
『組織的閉鎖性』
彼女は、自らの手で罠の次の段階を起動させることを選んだ。
「あなたの空想の源流は、デジタル物理学よね」とエレーナは言った。「ツーゼ、フレドキン、そしてウルフラム。彼ら先駆者のアイデアは興味深かったけれど、物理学の現実の前では無力だった。単純な格子状の計算モデルでは、特殊相対論が保証するローレンツ対称性を再現できない。そして何より、ベルの定理が禁じた局所的隠れた変数理論の罠から逃れられない。あなたの空想も、その同じ轍を踏んでいるだけじゃないの?」
やはり論点はそこに至る。これからも新たな科学者からこの仮説の糾弾を受けるたびにこの流れを繰り返すのだろうか。すでに嫌気が差してくる。しかし罠にはかからなかった。
「彼らの過ちは、宇宙の外に絶対的な処理クロックと、固定された格子状のルールを仮定したことだ」
「あなたは同じ過ちを犯していないと?」
「犯していない。僕のモデルに外部実行者は存在しない。僕のアルゴリズムは固定されたルールセットじゃないんだ。観測という内部からの相互作用に応じて、接続ルールそのものを動的に書き換える、生命的なネットワークを想定している」
その言葉に、エレーナの表情が初めて凍りついた。プレプリントの空想的哲学として読んでいた、冗談のような荒唐無稽な概念が、目の前の男の口から、実体を持ったナイフのように「物理学だ」と彼女の常識に突きつけられているのだ。
特にエレーナが衝撃を受けたのは、そのあり得ない答えを、絶対的な確信を持って語る翔の物理学者としての正気に対してだった。
そして、動的な生成。ルール自身の書き換え。そのコンセプトは、彼女が追い求めるループ量子重力理論の核心――時空が離散的な要素から『創発』するという思想と、方法論は全く違えど、あまりにも深く共鳴しているように思えてならない。
「そうだとしたら」と、エレーナは呟いた。どういうわけか自分の方が理論的に追い詰められているように感じる。「そんな自己言及的なシステムが、どうやって安定した物理法則を生み出せるというの」
翔は、彼女の表情に変化が起きたことに気付いた。論敵への敵意が消え、未知の知性に直面した物理学者としての純粋な好奇心と、根源的な困惑が浮かび上がっている。同時に「やられた」とも思った。彼女の誘導はここまで計算されていたのだ。デジタル物理学という第一の罠を突破した先、彼女は即座にこの『安定性』という、より本質的な問いを持ち出した。このリアルタイムの思考の応酬、その果てにある核心を、この場で自分の口から引きずり出し、この未知の理論の真の姿を暴き出すことこそが、彼女がスイスから飛んできた真の目的だったのだ。恐るべき知性の速度と深度を持つ女性だった。
翔は、どう答えるか考えあぐねていた。
彼女は〝どうやって〟と、メカニズムを問うている。けれどそれは、まだだれも見たことのないエンジンについて、その性能を語るようなものだ。まず伝えるべきは、エンジンそのものの設計思想――その革命的な〝それはなにか〟というものだ。
「宇宙が外部を必要としない自己完結したシステム……生命のようなオートポイエーシス的なネットワークであると仮定する」
翔は意図的に論点をずらした。というよりも、より根源的なレイヤーへと議論の場を切り替え、そこにエレーナを引きずり込んだ。
「自らを構成するルールを、自らの働きによって絶えず生産し、維持し続ける閉じた系。一般的なシミュレーション仮説との決定的な違いはそこにある。この宇宙に外部のプログラマーは存在しない」
その言葉に、エレーナは生唾を飲み込んだ。もちろん彼女は、自分の問いが巧みに回避されたことに気づいていた。そして同時に、回避されたことで語られたその答えが、単に彼が批判や論破を嫌って逃れたのではなく、ましてやもったいぶっているわけでもなく、議論の前提そのものを覆す、より巨大な概念の提示であることを理解した。
エレーナの知性が、翔の言葉の持つ途方もない意味を解析しようと、猛烈な速度で回転している。物理学、情報科学、生命論。全ての境界が融解していくような感覚。長い沈黙の後、彼女はかろうじて声を絞り出した。その声には、もはや敵意も嘲笑も含まれていなかった。
「……あなたのシミュレーションを見せてもらえる?」
その言葉は、科学者としての純粋な渇きを湛えていた。
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