家電と喧嘩した女

野々村鴉蚣

電話

 朝の光は無機質な白に沈んでいた。天井から降り注ぐ冷たい蛍光灯の光は、窓際の私の席に届くまでに何層もの影をくぐり抜け、擦れた紙のような色になっていた。

 いつも通りのオフィス、いつも通りの景色、いつも通りの生活。そこにあるのは何の変哲もない、ただの日常だった。

 私はよれたスーツを両手で無理やり伸ばして、自分の席に向かう。途中すれ違った同僚や先輩にあいさつし、後輩からのあいさつはあえて無視する。

 OLなんてみんなそんなもんだ。少々お高く気取っていれば、変な仕事を振られることも無い。ちょっとイケメンの先輩から憧れの視線を受けるし、面倒くさい禿げ上司からは避けられる。

 多少ツーンとしているくらいが、仕事も捗るというわけだ。これは私なりの生きる知恵。

 社会人生活はもう六年目。この会社での生活も、慣れたものだ。


 私はいつも通り、自分の席に腰掛けた。デスクの上に置かれている赤べこをツンと指先で叩くと、そいつはコクコク頷いて私を迎え入れてくれる。


 通路から三番目。端でもなく、中心でもなく、どこにも属さない中途半端な位置。コーヒーを取りに行くにも、給湯室の自販機までひと苦労。その手間が嫌で、私はいつも水筒を持参している。真空断熱、保温性に優れた国産品。もちろん、社員割引を利用して、最安値で購入した。


 私はそういう人間である。几帳面で、細かい。手帳は日ごとに分けて使い分けており、予定は青のペン、支出は赤、ひらめきは緑と決めている。無駄を嫌い、節約に命をかけている。昼食は常に手作り弁当。炊き立てのご飯に、前夜の残り物を詰めたそれは、決して華やかではないが、財布には優しい。


 今日の昼食は、昨晩食べ切れなかった空芯菜の炒め物。以前見ていたショート動画に上がっていたレシピをそのまま真似したものだ。ごま油と塩だけで簡単に作れるレシピ。もちろんそれだけだと味気ない。添えてあるのはちくわだ。中にベビーチーズを詰めてある。これで栄養バランスはバッチリのはず。


 さてと、と私は誰にでもなく呟くと、パソコンを起動した。慣れた手つきでソフトを開き、顧客名簿を開く。昨日やり残した仕事を確認する作業から始めるのだ。

 私の仕事は単純である。顧客からかかってきた電話に応対し、要望や質問、その他意見などをパソコンのソフトに打ち込む。そして、顧客に合わせた方法で、顧客が最も納得するサービスを提供する。

 言ってしまえば、クレーム対応係だ。

 大抵の場合は、返金対応で終わる。時折気持ちが足りないと言われ、わざわざ家まで出向いて頭を下げる必要もあるが、私の安い頭一つで給料がもらえるのならいくらだって下げられる。

 むしろ、会社の重い空気から一時的に開放されるのだ。家まで招かれた方が嬉しい時だってある。


 その日も、私は会社宛てに届いたクレームメールを確認したり、対応しかねる内容について上席に報告したりと、そつなく仕事をこなしていた。

 私の在籍するこの会社は、大手家電メーカーである。日本にある工場で全ての部品を製造し、組み立て、販売を行っているのが特徴だ。

 一昔前から、人件費が安いという理由だけでメイドインチャイナが増え続けていたが、そんな中あえて弊社の社長は完全国産家電に拘ったらしい。こうすることで、ブランディング力を上げ、将来多くの支持を得るだろうと考えたのだとか。

 彼の戦略は見事にヒットした。中国産の商品は不良品が多く、数多の会社がクレーム対応に追われることとなったのだ。

 そんな中、私の会社だけが高品質を謳い、信頼を築いてきた。結果として、今かかってくるクレームも大抵理不尽なものは無かった。皆、適切な対応を信じ、完全にこちらを信頼した形で電話してくれる。故に、丁寧な対応さえ怠らなければ、こじれることも無い。


 また一つ、電話が鳴った。ワンコール以内に電話を取り、社名と担当者である私の苗字を相手に伝える。その後、どのような要件だったのか確認し、パソコン上でマニュアルを確認する。

 大抵のクレーム内容に対する適切な対応措置は、既に頭の中に収められている。故に、わざわざマウスを操作してクレーム対応マニュアルを確認する必要もない。だが、私の勘違いで相手を怒らせたときの対応は面倒だ。だからこそ、私は必ずマニュアルを開き、その通りの言葉を口にする。

 この役割は、きっと将来AIに奪われるのだろう。誰でもできる仕事だ。


 そんな日々の中で、「園田さん」からの電話がかかってきたのは、ある金曜日の朝だった。

 いつも通り、無機質なオフィスに腰掛けて、少々黄ばんだ受話器を耳に当てた瞬間だった。電話越しに立つ人物は、淡々とこう言った。


「冷蔵庫が、喋らなくなったんです」

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