第2章 透明な手紙
ベイカー街221Bの書斎には、曇天の光が鈍く差し込んでいた。
ホームズは机の上に置かれた“見えない瓶”を前に、黙考を続けていた。
「この瓶、何か入っているのは間違いない。だが、液体も容器も――肉眼ではまったく確認できん」
ワトソンが近づいて覗き込む。
「確かに、重さはある。そして手触りもある……なのに、視覚だけが拒絶されている。これがもし、犯人の言う“存在の証明”だとしたら……」
「理性への挑戦だ」
ホームズは低く言いながら、瓶を慎重に布で包んで遮光した。
「おそらく、光に反応する何らかの化学処理が施されている。しかもそれは、透明というより――屈折率の操作だ」
「つまり、光が“避けている”?」
「正確には、光が“同化している”のさ。透明人間が実在するならば、我々の視覚の“信頼性”自体が揺らぐ」
ワトソンが少し怖気づいたように言った。
「……君は、本当に犯人が透明人間だと?」
「証拠は未だ十分ではない。だが、“見えない存在が犯行を行った”という現象に、何らかの論理的根拠があることは確かだ」
午後三時。
再び郵便が届いた。
それは真っ白な封筒で、蝋封もなければ差出人の名前もない。だが、なぜか“手紙の香り”だけが先に届いた。
ワトソンが思わず顔をしかめる。
「……これは、消毒薬の匂い? それも医療用ではない、工業用に近いな」
ホームズは頷きつつ、封筒を開いた。
中には、手紙ともうひとつ、小さなガラス片のようなものが入っていた。
「ガラス……じゃない。これ、何かのレンズだな」
手紙には、こう書かれていた。
“これは君に与える“視界の鍵”だ。
私を見つける方法は、それしかない。
だが気をつけろ――見ることは、理解することを意味しない。”
――G
「“G”……グリフィンか?」
ワトソンが呟いた。
「その名に聞き覚えが?」
「昔読んだ論文に載っていた。グリフィンという名前の薬学者が、光学的透明化を目的とした人体実験を行っていたと。だが、事故死したはずだ……」
「いや、まだ“死んだ”とは限らないな」
ホームズは手紙からレンズを取り出し、蝋燭の光にかざした。
すると、レンズ越しに見た机の上に、人の指先のようなものが、うっすらと見えた。
ワトソンが思わずのけぞる。
「……そこに、いるのか?」
「いや、これは残留影だ。熱や湿気、微細な接触の痕跡が、このレンズでのみ視認可能になる仕組みらしい」
「つまり、“見えない”という状態は、“完全なる不在”とは違う……」
「その通り。犯人は“不可視”でありながら、世界に干渉している。だからこそ――彼の足跡も、匂いも、熱も、残る」
その晩、ホームズはひとつの決断を下した。
「ワトソン。明朝、**グリフィンがかつて所属していた研究機関“アルドリッチ光学研究所”**を調べる。廃業したとされているが、何かが残っているはずだ」
「危険だぞ、ホームズ。もしグリフィンが本当に生きていて、我々を“見ている”としたら……」
「見られていても構わん。私は、“見返す手段”を持っている」
ホームズは、机の上に置かれた透明な瓶に目を落とした。
「……そして、やつがこの“存在しない物質”をどうやって手に入れたか――それを暴けば、姿なき者もまた、裁きの場に引きずり出せる」
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