第35話 倒錯する思い
任務前夜。
雨の音が遠くから響く夜、私はベッドの上で膝を抱え、カナちゃんと向かい合っていた。
この静かな部屋の空気が、まるで窒息しそうに重たい。
「この夜が終わったら、何もかも戻れなくなる」――そんな予感だけが、やけに鮮明に胸を締めつけていた。
「カナちゃん」
自分の声が、誰か別人のものみたいに震える。
「このままじゃ、ダメだと思う」
カナちゃんは車椅子の上で、困ったように目を伏せる。
「ごめん、結。ボクのせいで……」
「カナちゃんは悪くないよ」
私は静かに言った。でも、自分の中の“何か”がひどく冷たくなっていくのを感じる。
「正直に言ってくれたんだもん。私の方こそ、大人げなかった」
カナちゃんの目が、少しだけ揺れる。
私はもう一歩、踏み込む。
「カナちゃんが遥香ちゃんのことを好きで、一緒にいたいっていうなら――三人で、恋人でもいい」
声にした途端、心臓が引き裂かれそうだった。
なのに、カナちゃんは目を輝かせて、子供みたいに笑う。
「本当に?結、それでいいの?」
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れていく。
(いいわけがない。
こんな妥協、私の愛じゃない)
でも、笑顔だけは崩さない。
「でも、条件があるの」
自分でも他人事のように淡々と続ける。
「私を一番にして。どんなに遥香ちゃんが大切でも、私が一番だってことだけは――絶対に、忘れないで」
カナちゃんは真剣にうなずく。「当たり前だよ。結が一番に決まってる」
(それでも、足りない。私だけのカナちゃんじゃなきゃ、意味がないのに)
「……もし私が嫉妬しても、許してほしい」
声が擦れる。
「……嫉妬?」
「うん。カナちゃんが遥香ちゃんを見てる時、私、どうしようもなく醜い気持ちになる」
胸を抱きしめるように、私は膝をきつく抱え直す。
もう止められない。
「時々……遥香ちゃんを殺したくなる」
その瞬間、カナちゃんの表情が凍りつく――はずだった。
だけど違う。
カナちゃんの口元に、異様な微笑が浮かぶ。
まるで、私の暗い感情を「可愛い」とでも言うように。
「……結が、そんなふうに思ってくれてるなんて」
その声はどこか熱を孕んでいた。
「なんだか、嬉しい」
(ああ、この子は――
私の壊れた愛を、壊れたまま受け入れてしまう)
ぞくりと背筋をなぞる恐怖と陶酔。
私も、カナちゃんも、どこかおかしくなっている。
――なのに、愛しくて、誇らしくて、狂おしい。
「私、カナちゃんのこういうところが――」
言葉に詰まる。でも、もう全部言ってしまおう。
「私が嫉妬して、殺したいと思うことが嬉しい? 本当に?」
カナちゃんは頬を紅く染めて、小さくうなずいた。
「もっと見せて、って顔してる」
私が微笑むと、カナちゃんは一瞬だけ、怯えるような、でも期待に満ちた表情を浮かべる
私はカナちゃんの車椅子に跨るように腰を下ろし、両手でその細い首を包み込む。
ぬるりとした熱を感じながら、親指で喉の鼓動を確かめる。
「ねぇ……カナちゃん」
声が、ひどく甘く、でも低く震えていた。
カナちゃんの大きな目が、私をじっと見つめている。どこか怯えたような、それでいて期待するような――そんな眼差し。
「私、今……本気で殺したいって思ってる」
そう囁きながら、指先に少しだけ力を込める。
カナちゃんの白い首筋が、ゆっくりと赤く染まっていく。
カナちゃんの呼吸が浅くなり、喉がひくりと跳ねる。
でも、嫌がるどころか、うっすら笑った。
「……結、ボク、怖いよ」
かすれる声、震えるまつ毛、その瞳の奥には確かに悦びが浮かんでいた。
私の指を、カナちゃんは弱々しく掴み返してくる。逃げるでもなく、ただもっと深く沈み込むように――。
「怖いなら、もっと震えて」
私は、カナちゃんの首にさらに指を食い込ませた。
そのまま、顔を近づけ、苦しげに喘ぐ唇に自分の唇を重ねる。
「もっと、苦しそうな顔をして」
私は囁く。
カナちゃんの呼吸はどんどん浅くなり、瞳が潤んで、頬が上気していく。
それなのに――
カナちゃんは、私の手首を弱々しく掴みながらも、
ほんの少しだけ首を自分から預けてきた。
「ボク……結に殺されても、いい……」
その声に、私は身体の奥からぞわりとした歓喜が広がる。
「ダメ。死なせない。でも、壊したいの」
カナちゃんの喉が切なげに波打ち、細い血管がうっすら浮かび上がる。
「……ん、く、けつ……」
空気を求めて口を開いたカナちゃんの唇を、私は更に深く塞ぐ。
息が合わさり、苦しげな吐息が私の舌に触れる。
こんなに近くで感じる心臓の鼓動――その震えすら、私のものみたいで。
(今この瞬間、世界に二人きり。カナちゃんの全部が私の手の中で震えてる)
カナちゃんの頬に涙がにじむ。
それが苦しみなのか、歓びなのか、もう分からない。
「ほら、苦しい? でも……」
私は囁くように言い、首にかかる手を緩めず、もう片方の手でカナちゃんの髪を撫でる。
ゆっくり、優しく、でも逃がさないと伝えるように。
「お願い、もっと、私を見て……」
私の声が熱に溶けていく。
「私だけを見て――他の誰にも、絶対に渡さない」
カナちゃんは、かすかに笑ったまま涙を流し、必死に私の指に爪を立ててくる。
でも、痛みも快楽も、全部が混ざってしまっているのか、その手は、弱々しくもどこか甘えてしがみつく仕草になっている。
私は、彼女の首筋に唇を這わせ、痕が残るほど吸い上げた。
「カナちゃん、私のもの。壊れても、消えても、全部――私のもの」
自分でも何を言っているのか分からない。
でも、今はもう止められない。
ふと、首を絞める手を緩めると、カナちゃんは苦しげに大きく息を吸い込んだ。
その顔は真っ赤に染まり、涙と汗で濡れている。
けれど、その瞳だけは、どこまでも澄んで――ただ私だけを映していた。
「ごめんね……でも、カナちゃんの全部を、私にちょうだい」
私は囁きながら、もう一度、貪るようにキスをした。
カナちゃんは、身体ごと私に縋りつく。
「ふふふ、首絞めキスなんて初めてしたよ。ボクの初めてまた結に奪われちゃった。」
今にも壊れてしまいそうな儚さと、妖艶さが同居した笑顔を見せるカナちゃん。
その笑顔が私の心をどこまでも深く沈めていく。
(ああ、これが私たちの幸せだ)
暗闇の中、ただ二人きりの夜。
雨音だけが、外の世界の現実を忘れさせてくれる。
どれだけおかしくなっても、どれだけ壊れても、
この夜だけは――カナちゃんは確かに、私のものだった。
翌朝、私は街の中心部にある後衛待機施設にいた。
高級ホテルのような建物の一室。電子機器は一切なく、ただふかふかのソファと、静寂だけがある。
私にできることは、カナちゃんとのリンクで状況を把握することだけ。
任務地点は、ここから離れた工業地帯。
カナちゃんたちは既に現地に到着していて、建物の前で最終確認をしているところだった。
「よし、三チームに分かれて調査する」
真嶋さんの声がリンク越しに聞こえる。
「巽、玲のペアで東側。俺と遥香で西側を担当する」
そして、カナちゃんを見る。
「彼方は一人で中央から入れ。君の実力なら、単独でも問題ないだろう」
カナちゃんが頷く。
「分かりました」
私はカナちゃんの視界を通して、遥香ちゃんの姿を見る。
緊張した面持ちで、真嶋さんの指示に従って武器を確認している。
(あの子が……)
昨夜のことを思い出して、私の胸がざわつく。
遥香ちゃんを殺したいという気持ちと、カナちゃんがそれを喜ぶという事実。
私たちの関係は、もう普通じゃない。
カナちゃんが建物に向かって歩き始める。
魔力四肢が形成され、スムーズに移動を開始する。
建物の入り口は古く、錆びたドアがきしんでいる。
カナちゃんがドアを開けて中に入ると、薄暗い廊下が続いている。
その時、廊下の奥から低いうなり声が聞こえてきた。
悪魔だ。
カナちゃんの表情が一瞬で変わる。
先ほどまでの穏やかな顔から、戦闘モードに切り替わる。
廊下の奥から、低級悪魔が姿を現した。
犬のような形をしているが、牙と爪が異常に発達している。
悪魔がカナちゃんに向かって飛び掛かる。
でも、カナちゃんの動きは雷のように速かった。
魔力の右手が一瞬で伸びて、悪魔の首を掴む。
そのまま壁に叩きつけると、悪魔はぐしゃりという音と共に絶命した。
あまりにも呆気ない終わり方だった。
「さすがカナちゃん」
私は思わず呟く。
カナちゃんは何事もなかったかのように、さらに奥に進んでいく。
その圧倒的な強さを見ていると、改めて私の恋人がどれほど特別な存在なのかを実感する。
途中、もう一体の悪魔と遭遇したが、それも一瞬で片付けてしまった。
魔力の足で蹴り飛ばし、魔力の手で頭を潰す。
まるでゲームでもしているかのような軽やかさだった。
(この人は、本当に化け物なんだ)
でも、その化け物が私だけを愛してくれている。
それが、たまらなく誇らしい。
カナちゃんは建物の奥に進み続ける。
廊下は複雑に入り組んでいて、まるで迷路のようだった。
でも、カナちゃんは迷うことなく進んでいく。
何か目的があるのか、それとも直感で動いているのか。
やがて、カナちゃんは大きなドアの前に辿り着いた。
他のドアとは明らかに違う、重厚な作りのドアだった。
(何があるんだろう)
私もリンク越しに緊張する。
カナちゃんがゆっくりとドアノブに手をかける。
ギィ……と重いドアが開く音が響く。
部屋の中は、思ったより広かった。
でも、何か変だ。
空気が重くて、妙な圧迫感がある。
そして、部屋の中央には大きな機械装置が設置されている。
金属製で、複雑な配線が張り巡らされ、無数の小さなランプが点滅している。
装置からは微かな電子音が響いていて、部屋全体に奇妙な圧迫感を作り出していた。
カナちゃんが装置に向かって一歩踏み出した時――
突然、魔力四肢が消失した。
「え?」
カナちゃんの驚きの声がリンク越しに聞こえる。
支えを失ったカナちゃんの身体が、そのまま床に向かって落下していく。
「カナちゃん!」
私は思わず立ち上がるが、リンク越しでは何もできない。
カナちゃんは受け身を取ることもできず、硬い床に打ちつけられる。
鈍い音が響く。
映像はまだ見える。カナちゃんの感情も、微かに伝わってくる。バディリンクは、か細い糸のように繋がっている。
だけど、魔力がほとんど供給されてない。
(何が起きてるの?)
(カナちゃん、しっかりして!)
カナちゃんが魔力四肢を再形成しようとしているのが、映像を通して分かる。
でも、うまくいかない。
(あの装置……)
(きっとあの装置のせいでリンクが阻害されてるんだ)
私には何もできない。
ただ、か細いリンクを通してカナちゃんの状況を見守ることしかできない。
か細くなってしまったリンクが途切れてしまう可能性や恐怖から誰かに連絡を取ることすら出来ない。
リンクが切れてしまったらと思ったら、この場から動くことができない。
リンクの映像を通して、カナちゃんが必死に起き上がろうとしているのが見える。
でも、左手だけでは思うように動けない。
昨夜、あんなことを話したばかりなのに。
お互いの暗い部分を確認し合ったばかりなのに。
ふとあの地獄のような拷問が頭をよぎる。
「いやだよ、カナちゃん……」
待機施設の一室で、私は一人震えていた。
愛する人が危険な状況にいるのに、何もできない。
ただ、か細いリンクを通してカナちゃんの姿を見つめることしかできない。
そして、スラリとしたシルエットがカナちゃんに近づいている。
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