第20話 襲いかかる現実
次の日も、カナちゃんはほとんど何も口にせず、ただ私のそばで、静かに縮こまっていた。
寮の部屋のカーテンを閉め切り、世界の音も光も遮断する。
あの日の戦場の光景が、私の脳裏には何度もフラッシュバックするけれど、
カナちゃんだけはそれを思い出さないように小さくなっている。
私はずっとそばを離れなかった。
「カナちゃん、何かしてほしいことある?」
「……ずっと、ここにいて」
カナちゃんは、まるで小さな子供みたいに私のパジャマの裾を握る。
「どこにも行かないで。ひとりにしないで……」
その声はかすれて震えているのに、私の名前を呼ぶときだけ、ほんの少しだけ甘えてくる。
私は「絶対に離れないよ」と約束し、カナちゃんを膝の上に座らせて、髪を梳かし、背中を撫で続けた。
トイレも、歯磨きも、着替えも、全部付き添う。
彼女の望みを一つも断らず、お姫様のようにすべてをしてあげるのが、今だけの正義だと思っていた。
時折、カナちゃんは思い出したように涙を流し、「ボク、もう、何もしたくない……」と呟く。
私はその言葉に「大丈夫だよ、全部私がやるから」とすぐに応える。
自分の優しさがどこか病的に歪んでいるのも、今はどうでもよかった。
(このまま、カナちゃんが壊れてしまってもいい――もう誰にも渡さないでいられるなら、私のためだけに、ずっとここにいてほしい……)
心の奥底からそんな黒い欲望が膨らんでくる。
でも、それを口に出すことはなかった。
ただ、カナちゃんの小さな指を自分の手で包み込み、「ずっと一緒だよ」「私が全部守るからね」と、
甘く囁き続けた。
どこか現実から遠く離れたような幸福感――
誰にも邪魔されないふたりきりの世界。
それだけが、今の私の全てだった。
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三日目の朝、カナちゃんは少しだけ起き上がった。
「結……お腹、空いた」
その小さな声に、私の心は躍った。
少しずつでも、カナちゃんが回復してくれている。
「何が食べたい? 何でも作ってあげる」
「……おにぎり、食べたい」
私は急いでキッチンに向かい、丁寧におにぎりを作った。
カナちゃんの好きな具材を選び、形も彼女の好みに合わせて。
すべてが、カナちゃんのためだった。
カナちゃんは小さく「ありがとう」と言って、おにぎりを口に運んだ。
その仕草が愛おしくて、私は思わず微笑んでしまう。
「美味しい?」
「うん……結の作ってくれるもの、全部美味しい」
その言葉に、胸が熱くなった。
私だけが、カナちゃんの世話をできる。
私だけが、カナちゃんを笑顔にできる。
そのことが、何よりも誇らしかった。
四日目には、カナちゃんは自分で起き上がり、窓辺に座って外を眺めるようになった。
まだ話すことは少ないが、私が話しかけると小さく頷いてくれる。
「今日は天気がいいね」
「……うん」
「お散歩、してみる?」
「……結と一緒なら」
私たちは手を繋いで、寮の周りを静かに歩いた。
誰にも邪魔されない、平和な時間。
こんな時間が永遠に続けばいいのに、と心から思った。
でも、部屋の外には確かに現実があった。
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一週間ぶりに寮の廊下に出ると、周囲の空気がまるで違っていた。
静けさの底で、誰かの泣き声やため息が響き、どの教室も、廊下も、灰色に沈んでいる。
紅葉の部屋は既に空になっていた。
ドアに「転校」の札が貼られ、彼女の荷物はすべて片付けられている。
本当に、彼女は去っていったのだ。
私の胸に、複雑な感情が湧く。
悲しみと、そして、ほんの少しの安堵。
カナちゃんを奪われる心配がなくなった、という安堵。
陽菜の部屋からは、まだ時々すすり泣きが聞こえてくる。
沙耶香と歩美の部屋も、重い沈黙に包まれている。
みんな、それぞれの悲しみの中にいる。
私はカナちゃんの様子を見ながら、慎重に学校復帰の準備を進めた。
「無理しなくていいよ。疲れたらすぐに帰ろう」
「結が一緒にいてくれるなら、大丈夫」
カナちゃんのその言葉が、私の心を満たす。
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学校に着くと、教室の雰囲気は以前とは全く違っていた。
みんな、私たちを見るとすぐに目を逸らした。
バディを失った後衛たちは、どれだけ泣いても涙は乾かず、新しい前衛も用意されないまま、ただ欠けた席がぽっかりと教室の一角に残っている。
悠馬の席、康介の席、拓海の席、翔太の席。
空いた机が、彼らの不在を物語っている。
陽菜も沙耶香も歩美も、私たちを見ようとしない。
葬式の日よりさらに、自分たちだけがこの世に取り残されたような孤独を感じた。
(カナちゃんを守るためなら、もう他の人のことなんて、どうでもいい……)
そう思っていたのに、クラス担任の先生が静かに教壇に立ったとき、心臓が一瞬で冷たくなる。
「みなさん、大変な時期だと思いますが、重要な連絡があります」
先生の声は、いつもより低く、重い。
教室の空気が、さらに張り詰める。
「悪魔の出現が急激に増加しています。上層部からの指示により、戦力を再編成して、可能な限り早期に現場復帰していただくことになりました」
その言葉に、教室がざわめいた。
私は、カナちゃんの手を机の下で必死に握りしめた。
「次の任務が決まりました」と担任が淡々と告げた瞬間、心臓が一瞬で冷たくなる。
「人手が足りないから、再編成した班でまた現場に出てもらう」
先生は私たちを見るとき、どこか申し訳なさそうな、でもどこか他人事のような顔をしている。
大人たちにとって、私たちはやはり戦力でしかないのだ。
カナちゃんの手が、私の手の中で震えていた。
「こんなの、嘘だよ……」
カナちゃんが小さく呟いた。
その横顔は、もう何も信じられないという諦めと、これ以上何も奪われたくないという悲鳴で満ちていた。
陽菜が席から立ち上がった。
「私、もうバディいないんですよ! どうやって戦えって言うんですか!」
その叫びに、教室が静まり返った。
先生は困ったような表情を浮かべる。
「新しいバディを……」
「新しいバディなんて、いらない! 康介じゃなきゃ、意味がない!」
陽菜の声が裏返る。
沙耶香と歩美も、うつむいたまま肩を震わせている。
私は、この状況の異常さに愕然とした。
バディを失った後衛たちに、新しいパートナーを押し付けようとしている。
魂で繋がった相手を失った痛みを、理解していない。
クラス中が沈黙したまま、担任の言葉だけが重く重く、私たちの世界を覆っていく。
私は、守ろうとしたこの世界があっさりと壊される現実を前に、何もできない無力さに押し潰されそうだった。
誰も私たちを救ってはくれない。
誰もこの地獄から抜け出させてはくれない。
どれだけカナちゃんを抱きしめても、どれだけ守ろうと叫んでも――
現実は、必ずふたりの幸福に終止符を打ちに来る。
「再編成された班の出撃は、明後日。詳細は各自に後ほど伝えます」
担任の静かな声が、教室にぽつりと落ちた。
誰も反論しない。
誰も泣き声をあげない。
それぞれの席で、ただうつむき、自分だけの絶望をじっと抱えている。
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放課後、ふたりきりの寮の部屋に戻っても、現実の重さが、部屋の中にまでついてくる。
私はカナちゃんの隣に座り、彼女の手を、何度も何度も握り直す。
「行きたくない……」
カナちゃんが、消え入りそうな声でつぶやく。
「もう誰も死んでほしくない。もう誰も失いたくないよ……」
私は、カナちゃんの頭を胸に抱き寄せた。
「大丈夫だよ。今度は、私が絶対に守るから」
そう言っても、自分の声がどこか虚ろで、本当にその約束を守れる自信なんてなかった。
心の奥で、また誰かが死ぬかもしれない、私が守れなかったら、カナちゃんをまた失うかもしれない。
そんな恐怖が渦を巻く。
でも、今は泣き言を言うわけにはいかない。
私は、バディとして、恋人として、何があってもカナちゃんの盾にならなきゃいけない――
そう自分に言い聞かせていた。
(大丈夫、大丈夫。今度こそ、何があっても絶対にカナちゃんだけは……)
カナちゃんは私に顔を埋めたまま、肩を震わせて泣いていた。
どれだけ抱きしめても、どれだけ言葉を重ねても、この現実からはもう逃げられない。
それが、今の私たちに課せられた唯一の生きる理由だった。
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その夜、私たちは久しぶりにゆっくりと話をした。
カナちゃんの調子も少し良くなっていて、私の膝に頭を乗せながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「結、ボク、本当に弱いんだ」
「そんなことない」
「でも、あの時、みんなを守れなかった。ボクが弱いから、みんな死んじゃった」
私は、カナちゃんの髪を撫でながら答える。
「カナちゃんは、最後まで戦った。誰よりも勇敢だった」
「……でも、結果は変わらない」
その言葉に、私も何と答えていいかわからなかった。
事実として、仲間たちは死んでしまった。
その現実は、どんな慰めの言葉でも変えることはできない。
「明日からまた、戦わなきゃいけないんだね」
「うん……でも、今度は違う。私がもっとしっかりサポートする」
カナちゃんは、私を見上げて小さく笑った。
「結がいてくれるから、ボクは大丈夫」
その笑顔が、久しぶりに見る本当の笑顔だった。
私の胸が、温かくなる。
「絶対に、二人で帰ってこよう」
「うん、約束」
私たちは、小指を絡めて約束した。
その小さな指が、今は世界で一番大切なものに思えた。
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出撃前夜。
部屋の灯りを消し、私とカナちゃんはふたりきりでベッドの上に座っていた。
ふたりの間にはもう、余計な言葉も嘘もなかった。
カナちゃんは、今日一日、ほとんど何も食べていない。
熱いお湯で顔を拭き、柔らかなタオルで髪を拭いてあげて、パジャマに着替えさせて、ぎゅっと腕の中に閉じ込めている。
「明日、また現場に行くんだね……」
カナちゃんがかすれた声で言う。
私は、苦しくて、胸の奥がえぐられる気持ちになった。
「私、また見ていることしかできない」
そう呟いたとき、自分の言葉があまりにも無力で、情けなくて、喉の奥が焼けるようだった。
「見てるだけでもいいんだ。結が見ててくれたら、それだけで、ボクは……頑張れるから」
カナちゃんは、私の胸に顔をうずめて泣く。
私はただ、カナちゃんの背中を何度も撫でた。
(ごめんね。本当は私も、一緒に戦って、この手でカナちゃんを守りたかった。でも、私は後衛だから、一緒には行けない。ただ見ていることしかできない。パス越しに、叫びも痛みも全部受け止めることしかできない)
それでも、今だけは、ふたりきりの部屋の静けさが世界のすべてだった。
この夜が、永遠に続けばいいのに――そう心から思ってしまう。
カナちゃんの髪を撫で、何度も「大丈夫」と囁き続ける。
心の奥では、本当は何があっても守りきれないかもしれないという不安に押し潰されそうなのに、それでも、約束だけは繰り返さずにいられなかった。
「大丈夫。絶対に私が守るから――」
自分に言い聞かせるように、私は何度も、何度もカナちゃんに囁きかける。
「結……」
「何?」
「ボク、結がいなかったら、きっともう生きていけない」
その言葉に、私の心は複雑に揺れた。
嬉しさと、責任の重さと、そして少しの不安。
カナちゃんが私に依存してくれることは嬉しい。
でも、同時に、その依存が彼女を弱くしてしまうのではないかという心配もある。
「私も、カナちゃんがいなかったら生きていけない」
それは、本当の気持ちだった。
「二人で、ずっと一緒にいよう」
「うん……ずっと一緒」
その夜、私たちは離れずにくっついたまま眠りについた。
明日からまた地獄が始まる。
でも、今この瞬間だけは、世界で一番幸せな二人だった。
夜の静寂と、共依存の幸福と、明日からの恐怖だけが、私の胸の奥にずっと残っていた。
窓の外では、もう朝の光がうっすらと差し始めている。
新しい戦いの日が、もうすぐ始まろうとしていた。
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