2
暮れ方までの遊びは極度の疲労を与え、思い出から私を遠ざけた。それでも心持ちとしては充足していた。あの麗しい純朴なる少年は「遊びたいから明日も来てよ」と、白い精神性に則した約束を私と結んだ。彼の痩せた胸板の奥底で忙しなく鼓動する心臓は、私の奥底で落ちついた昂ぶりを再び赤熱させた。
純朴な精神にそぐわぬ艶やかな肉体。相反する性質を持つ彼と再び会えると思うと、私の冒涜的な期待は膨らんだ。そのために、仏間に敷いた黴臭い布団で横たわる私は重い瞼があるのにもかかわらず寝付けなかった。そして恥ずべきことに骨壺の前で屹立したのだ。
昂ぶりは収まることなく夜が明けた。
重い体をコーヒーと頭痛薬で無理やり動かし、私は再び遺品整理に取り組んだ。蝉と鳩の鳴き声が霞む頭の中で鮮明に響く。香炉から漂う線香の香りが黴や埃の臭いと混じって吐き気を催させる。優れぬ体調は仕事の効率を低下させた。だが、仕事自体を取り上げはしなかった。私が取り掛かる前に叔父が粗方の片づけをしてくれていたおかげで、夥しい遺品の整理は目途がついていたのだから。
太陽が天球の頂上に到達し、昂ぶりも同様に絶頂に達した。約束の時間まで残り一時間。私は丹寧に脇や首、耳の後ろ、脂で光らないように顔をシャワーで洗い流した。肉体にこびり付いた臭いを彼に気付かれまいと邪な思いを持ちながら。
持ってきた数少ない服に着替え、灼熱の外に出た。乾ききった空気は容赦なく発汗させ、つい三十分前の動作を無に帰す。
橋桁から河原を見つめても彼はそこにいなかった。輝く水面と風に揺れる灌木の葉があるばかりであった。青い茂みはさらさらと葉音を立てている。乾いた土の臭いが鼻をくすぐる。かつて父とともに嗅いだ臭いが郷愁を刺激する。
脳裏には父の姿が浮かぶ。汗が滲んだしかめっ面を土で汚し、腰を屈めて懸命に畑仕事をする姿が。私はあの大きな背中と独特な臭いに惹かれていた。ただ一人で行う育児に関して子供の前で泣き言を零さず、ひたすらに汗を流す男に憧れていた。だからこそ思春期を迎えても私は農作業を手伝い、キャッチボールをしたのだろう。
ありありと浮かんでくる懐かしい光景は涙を誘う。潤む双眸は眼前の輪郭をぼやかす。昂ぶりは感傷に浸され、冒涜的な期待は良心に罰せられる。
河原をぼうっと見つめていると、橋の下から突然、彼が現れた。昨日と変わらず白いシャツとカーキの短パンを履いた少年は周囲を見渡す。
橋桁に立って自身を見下ろす存在に気付いた彼は一瞬口籠りながら、「おーい!」と無邪気な声をあげる。その純真無垢な少年の声は美しい郷愁を瞬く間に瓦解させる。
生理的な嫌悪が私を縛り上げる。ただその捕縛も虚しく、こちらに向けて手を大きく振る彼の方へ私の脚は動いてしまう。シャツの袖口から時折覗く滑らかな窪みが私を誘惑するのだ。
*
私を見上げる彼の目は昨日とは違い輝いていた。素性の一切を知らない相手なのにもかかわらず、彼は私を『安全な人』と認知しているようだ。
「今日は泳がないの?」
卑しい問いの真意を悟られまいと私は微笑を浮かべる。
穢れなき双眸はこちら覗き込む。そうしたかと思えば口を微かに動かし、俯いて自身のつま先を見つめる。彼は私の本性に気付いたのだろうか。いや、それは違う。彼の瞳は私の昂ぶりを直視したのではない。単に問いかけに対して後ろめたさがあるだけだ。握り拳を両手に作った彼は体を強張らせる。浮かび上がる首筋と大静脈、引き締められる臀部、そして変化した匂い。
穢れなき魂を宿す肉体が耐えがたき苦悩によって変化する様を観察したいと思ってしまう。嗜虐心の表れである。
良識を越えたその欲求は微かに残っていた道徳心によって抑制される。私は無数に浮かぶ尋問の言葉を紡がず、彼の頭に手を伸ばす。そうして頭を撫でまわしながら「浅瀬で遊ぼうか」と提案する。
さらさらとした髪は指の間を容易にすり抜ける。その時に感ずるくすぐったさに恣意的な微笑は綻ぶ。
彼は私の気を知らず「うん!」と大声で返答する。全身の筋繊維と腱はその言葉とともに弛緩し、彼の体は柔らかさを取り戻す。
私はその瞬間に艶やかな裸体を覆う衣類に憎悪を覚えた。少年と青年が混淆したカオティックな肉体よ、いますぐ姿を現せ!
私の胸中で反響する叫びを彼は知らない。彼が知るのはその残響としての行為であろう。
彼のしなやかな手を握り、私は浅瀬に足首を付けた。透明な流れは冷たく快い。それは彼も同じようで顔を綻ばせた。
多くの恋人がそうするように私たちは水を掛け合った。彼の水鉄砲の精度は素晴らしく何回も私の鼻頭を濡らした。私はその度に「なにを!」と言って、手一杯に水をためて彼に浴びせかけた。そのとき薄手のシャツは濡れ透け、乳白色の美しい肌が微かに見えた。それから冷たさのために膨らんでいるだろう愛おしい二つの蕾を目にした。
私はその状態を維持しようと必死になった。子供よりも子供らしく、理性を失い獣に落ちた人間となって彼に水を浴びせかけた。
必死の遊びは小一時間で終わった。ぐっしょりと濡れた私たちは河原に腰を下ろした。燦々と照り付ける太陽も、いまは冷え切った体を温める存在となった。彼は私を見上げ「お兄さんって、どこに住んでるの?」と尋ねた。私はその問いを前に期待を覚え、瞬間的に「東京だよ」と答えてしまった。
邪な私の返答に彼は目を輝かせた。そうしてさらなる問いを発そうとした。しかし、私は内部に発生した嫌悪感から「君はどこに住んでるの?」と尋ねてその機会を奪った。
不服気な表情を浮かべた彼は「ふたどころ」と答えた。それはこの村落の中心部であり、この川から一・五キロほど離れた場所だ。わざわざ遠い場所に徒歩で出向いて遊ぶ理由がわからなかった私は「へえ、ここに来るとき意外は何してんの?」と婉曲的に尋ねた。
彼は私の問いに率直かつ詳細に答えた。だが、私の興味はそこから瞬く間に失われた。独善的な私の視線はただ濡れたシャツに透ける二つの蕾を捉えていた。声は橋を通り過ぎた自転車の音と混じって消えてしまった。
*
少年の話を聞き終えると、空は浅黄に色付いていた。私は「今日はお開きだ」と言って立ち上がった。その実、時刻的なことではなく服が乾ききったためにそうしたのだ。友人との日々を饒舌に語った彼は寂し気に「明日も来てよ」と言い、私は「もちろん」と返した。
少年と別れたのち、私は農道で自転車に乗った友人の父親とすれ違った。父の畑を受け継いでくれた恩人である。農業組合のキャップを被った男は私を見つけると、自転車から降りた。私よりも頭一つ背の低い男は、土に汚れた白い作業着から日に焼けた剛腕を覗かせていた。
「ご愁傷さまでした」
男はキャップを外して頭を下げた。
「いえ、こちらこそ畑を継いでくれてありがとうございます」
白髪塗れの頭を上げた男はキャップを被り直して、土に塗れた顔をしかめる。それは私への同情と何らかの警告のためだろう。
「お前さん、悪いことは言わねえからあそこの子供と付き合うのはやめとけ」
「あの少年ですか?」
「ああ、あそこんち、父ちゃんは出て行って、母ちゃんは夜遊びがひどいんだ」
恥じらいを交えながら男は語る。そこには道徳的な躊躇いが滲んでいた。
「夜遊びって」
「あそこんちの母ちゃんがここで一番初めにコロナになったからよ。あの時期にコロナにかかるなんてそれしかないだろ」
私は男の言葉に憶測を見出した。そうしてそれを躊躇いなく他者に広める彼に憤りを覚えた。
「うちの村じゃみんなそう言ってる。だから、お前さんも付き合うのは止しとけよ」
男の欺瞞に満ちた忠告は私の憤懣を高めた。それと同時にほとんど聞いていなかった少年の話を微かに思い出した。少年はひたすらに友人に関する話をしていた気がする。家庭のことは何ら話していなかったはずだ。
「わかりました。それじゃあ、失礼します」
「気を付けて帰れよ」
私は痴愚なる父の恩人に別れを告げ、帰路についた。
*
憤りと疑念が昂ぶりを覆い隠した。そのために私はあっさりと眠りにつけた。
翌朝、休日だということもあって叔父が遺品整理の手伝いに来た。村の中心部に住む溌剌とした中年は、倦怠のために私がしていなかった仕事を瞬く間に終わらせた。その際、「これ、アルバムだ」と思い出の物的証拠を叔父が見つけ出した。
日に焼けていない鮮明な写真の数々を見ながら私たちは昼食を食べた。名荷の入った素麺は独特な味がした。
その席で私は叔父に昨日聞いた噂話を尋ねた。良識のある叔父は眉間に深い皺を作り、申し訳なさそうな顔で「デマだよ。そこの家が初めてコロナになったのは、お母さんが看護師だからだ」と答えた。それから「ただ、もう広まったものは仕方がない。俺たちにも世間体があるからな」と、痛々しい表情で呟いた。
私は「こんな狭いところじゃ仕方ない」と、叔父の苦しみを肯定した。
父は不正を赦す私を見たら怒るだろう。婚姻の不正のために別れ、苦心した男なのだから。
「だけど、ここにいる間くらいはあの子と遊んでやってくれ」
叔父は自身の罪を託すように泣きそうな顔でこちらを見つめた。私は手元にある父との写真を見つめながら「わかった」と了承した。
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