第2話 波瑠瑞樹は太陽のような先輩に焦がれる ②

 俺が初めて結城ゆうき瀬那せな先輩に声を掛けられたのは、一週間ほど前にさかのぼる。


 *


 その日の朝も学校に行くためにバス停にやってきて、他に誰も待っている人のいないバス停のベンチに座った。

 前日にあった体力測定で、久しぶりに本気で長距離を走ったせいか筋肉痛がひどかった。

 中学校の三年間陸上部に所属し、ずっと長距離をやっていた。現役時代、練習で嫌というくらい毎日のように走っていた。そのせいか引退してからも走っていないと落ち着かなくて、日課でランニングを続けていたけれど、それでもなまってしまっていたようで昨日からずっと足が重たい感じがしていた。

 だから、少しでも足を休めたくて、初めてこのバス停のベンチを使うことにした。

 ベンチに座り、ふくらはぎや太ももを軽くマッサージをしていると、ふいに人の気配と杖を突く音が聞こえ、顔を上げるとバス停にほど近い場所をお婆さんが歩いていた。

 見るからに足が悪そうな歩き方で、バス停に向かって来ているように思えた。

 お婆さんが座れるスペースを作るために端に寄るだけでもよかったけれど、持っている荷物を置いたりベンチを広く気兼ねなく使って欲しくて、お婆さんがバス停に着く前にベンチから立ち上がった。さらにバスに乗る順番も譲った方がいいかなと思い、ベンチの後ろへと移動した。

 そこまで露骨に分かりやすく目の前で席を譲ったことで、お婆さんはベンチに座る前に俺の方をじっと見て、反応をうかがっているようだった。


「よかったら、どうぞ座ってください」

「ありがとうね、お兄さん」


 お婆さんはふっと笑みを浮かべ感謝の言葉と一緒に頭を下げ、ゆっくりとした動作でベンチに腰掛けた。それからお婆さんは持っていた鞄から個包装されたあめを取り出し、


「お兄さん、よかったら飴食べるかい?」


 そう顔の皺を深くしながら、飴をのせた手を俺に向けて伸ばしてきた。


「お礼をされるようなことじゃないですので、本当に気にしないでください」


 気持ちだけでいいと笑顔を見せながら遠慮の言葉を口にすると、お婆さんは俺に届かなかった手を引っ込める。お婆さんはどこか寂しそうな表情を浮かべているように見え、心に罪悪感の棘が刺さった気がした。

 もし逆の立場なら――受けたのは小さな善意かもしれないが、それが嬉しく思えたなら感謝の気持ちを言葉だけでなく伝えたいと思っても不思議ではない。

 それが今回は飴で、受け取ってもらえる方が恩を受けっぱなしになるよりかは気が楽になる。お返しとしては些細なものかもしれないが、少しでも喜んでもらえたらお互いにきっと心が軽くなる。

 そして、それがまた次のちょっとした優しさや善意に繋がる。

 それが回りまわって自分が優しくされたときは同じように素直にお礼を言ったり、ささやかなお返しをできる人間になりたいと思った。

 そういう連鎖はいつまでも続いて欲しい。

 だから、後悔しないために、それが自己満足だったとしても、やり直そうと決めた。


「あのっ!! やっぱり、飴貰ってもいいですか? 学校で小腹が空いたときに食べたいなって」


 俺の言葉にお婆さんは戸惑いと驚きが混じったような表情を浮かべるが、すぐに優しい穏やかなものへと変わっていく。


「そういうことなら、学校のお友達と分けるためにたくさん持って行く?」


 お婆さんは飴の入った袋ごと渡してきた。


「さすがにそんなには貰えませんって」


 今度の遠慮の言葉にはお婆さんは小さく笑みを浮かべていて、俺もつられて笑ってしまう。それから手の平を上に向けるとお婆さんは袋傾けて飴の小さな山を作ってくれた。


「ありがとうございます。学校で友達と分けて食べさせてもらいますね」


 感謝の言葉を伝えると、お婆さんは優しい微笑みを浮かべ、もう一度俺に感謝の意味を込めて頭を下げて正面に向き直った。

 貰った飴をブレザーにしまい込みながら、なんだかちょっとした宝物に思え、食べるのが少しだけもったいない気がした。だけどちゃんと友達と食べて、またここで会うことがあったら、「美味しかったです。ありがとうございました」と笑顔でお礼をもう一度伝えようと心に決めた。

 少しだけ勇気を出してよかったと思った。

 安堵のため息を漏らしていると、誰かに肩をぶつけられた。正確には肩で軽く小突かれた。全然痛くはなかったけれど、突然のことで混乱してしまう。

 そうやって小突いてきたのは、いつもこのバス停から同じバスに乗る、同じ学校に通う女子だった。

 その女子のことを、目鼻立ちがしっかりとしていて、落ち着いた空気感をまとっている美人だと思っていた。

 それが今はとても機嫌がよさそうな明るい笑顔をすぐ隣から俺に向けていた。本当に昨日まで見かけていた人と同じなのかと思うほどにかわいらしい人がそこにいた。

 そして目が合うと、ニコっとさらにもう一段笑みを深くする。


「キミ、めっちゃいいやつじゃん。偉いね」


 これまで会釈や挨拶はおろか、一言も言葉を交わしたことがない女子に、今にも頭を撫でてきそうな軽いノリで褒められて、混乱はピークに達してしまいフリーズしてしまった。


「あれ? せっかくいいことをした新一年生の後輩を褒めてるんだから、何か反応してよ」


 まばゆいばかりの笑顔を浮かべていたと思いきや、わざとらしく頬を膨らませながら俺の顔を不機嫌そうな顔で覗き込んできた。その落差に思わず、噴き出してしまう。


「いやいや、いきなり話しかけられて、どうリアクションしろって言うんですか?」

「年上のお姉さんに褒められて照れるとか、フランクに話し返してくれるとか。あとは不審者を見る目を向けるってのもあるけど、お婆さんに優しくできる後輩くんにはそれはできないよね?」


 目の前で楽しそうに話している姿に、本当はこんなにもお喋りな人だったんだと面食らった。それと同時にふと気になることがあった。


「あの……なんで俺が一年生だって知ってるんですか?」

「それは簡単な話だよ。私はこのバス停から通学するのは三年目だからね。見慣れない同じ制服の男の子がいたら一年生だと思うよね?」

「もしかしたら今年からバス通学に切り替えただけかもしれないじゃないですか」

「そう来たか。でも、その制服。まだ新しいものだってのは見れば分かるからね」

「大した名探偵っぷりですね。先輩」

「ありがとう、後輩くん」


 そんなくだらないやり取りをし終えたところで、同時に噴き出して笑い合った。

 そこに学校に向かうバスがやって来た。

 先輩はバスに乗り込んだあと、お婆さんのために優先座席に座っていた同じ学校の女子生徒に笑顔でお願いして席を譲ってもらい、お婆さんと一緒に感謝していた。

 そして、お婆さんからその女子生徒と一緒に飴をもらい、素直に喜んでいた。

 そんな先輩の言動は周りから見れば、とても爽やかで気持ちのいいものに映り、本来バスの中にあったはずの通学や通勤途中のどこか陰鬱いんうつとした空気感は、優しい風で塗り替えられる。

 席を譲ることになった女子でさえも、先輩に真っ直ぐ感謝の言葉を笑顔で言われると自然と柔らかな笑みを浮かべていて、そのまま先輩と話し始めた。きっと二人は話すのは今日が初めてなはずなのに、仲のいい友達と話しているかのようなリラックスして楽しそうな表情を二人とも浮かべていた。

 人を惹きつける先輩の魅力のなせるワザなのか、するりと人のふところに入り込むのが上手いのか。

 いや、たぶん先輩は、自分の心に正直なだけなのかもしれない。

 困っている人がいれば手を貸し、感謝を素直に言葉にすることができる。

 だから、まるで周囲を明るく温かな気持ちさせる太陽みたいな人で。


 バスに揺られるなか、先輩と目が合った。

 先輩は俺に向けて、ニコッと笑みを見せ、隣の女子との会話に戻っていった。

 先輩の笑顔が、姿が、俺にはとても眩しく見えた――。

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