36.ぜんぶ別れのせいだ
「エリシア、道中、神の敵には十分に気をつけてね」
「はい。気をつけて、行ってまいります」
あたたかな朝の光が、教会のステンドグラスを淡く染めている。
教会の広い庭では、小鳥たちのさえずりと子どもたちの泣き声が合唱を奏でている。
遠くで木こりが木を打つ乾いた音が響き、朝の光景にゆるやかなリズムを添えていた。
「うぅぅぅぅぅ、寂しいよお。エリシア姉ちゃーん」
「あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙ーん! 行っちゃヤダよぉー!」
いくつもの小さな手が、エリシアのローブの裾を掴んで離さない。
孤児である子どもたちにとって、彼女はもう本当の姉のような存在になっていた。
鼻をすする音と、嗚咽が風に乗って運ばれていく。
花壇に咲いたラベンダーの香りが、ふわりと鼻先をかすめた。
ちょっと困った表情で、エリシアは泣きじゃくる子どもたちの頭を順に撫でる。
「少しだけのことですよ。街の教会で仕事を済ませたら、すぐに戻ってきますから。ちゃんとお土産も買ってきますから。ね、そんなに泣かないで」
つまり、そういうことだ。
知ったときは、僕も全身の力が抜けてしまった。
エリシアが『街に戻ることになりました』なんて言うものだから、てっきりこの村からいなくなるものだと思っていた。
なんのことはない。
僕が幼い頃、
あの頃のリウィアも見習いだったことを考えると、もしかするとこれはエリシアが正式な
エリシアが言うには、あの日の夜にちゃんと僕に伝えたそうなんだけど……、彼女が村を去るものだと早合点した僕は、その言葉を上の空で聞き流してしまっていたらしい。
子どもたちとの涙の別れを終えたのを見計らって、僕はエリシアに近づいた。
村を離れるのはほんの数日のこと、とはいえ近くに彼女がいないのはやっぱり寂しい。
僕はそうとは悟られないよう、精いっぱいの笑顔を作った。
「いいなあ。僕も街に行きたいよ」
「別に、遊びに行くわけではないのですよ?」
「わかってるけど。……やっぱり、一緒に行きたかったよ」
「それは……、とても楽しそうですね」
少しだけ漏れた僕の本音に、エリシアはにっこりと微笑んで同意した。
一緒に行くことはできないけれど、彼女も同じ気持ちでいてくれたことは素直に嬉しいと思えた。
「そういえば……少しだけ不思議に思っていることがあるんです」
「不思議って?」
「なんというか、いつもより早いんですよね」
朝の光が彼女のブロンドの髪をやわらかく照らして、金糸のようにきらめいた。
エリシアが首を傾げると、額にかかっていた長い髪がはらりと落ちた。
それだけのことが、とても愛おしく感じた。
「いつもは秋だと聞いていたんですけど」
街の教会を訪問する時期のことを言っているのだろう。
そういえば、僕がリウィアについて街に行ったのも、涼しい風が吹くようになった頃だという記憶がうっすらとある。
早い
「それは……ずいぶん早いね」
「そうでしょう?」
心配そうにしているエリシアの気持ちが、残念ながら僕にはよく分からない。
教会が彼らの都合で僕らを振り回すなんてよくあることで、僕らはそれに粛々と従うだけの関係。それだけの格差があるのだ。
本来は秋にやっているものを初夏にやる。
それくらいの予定変更は、僕らにとって特に不思議なことではない。
「きっと、エリシアが優秀だから教会が時期を早めてくれたんだよ」
「そんなわけないでしょっ。もう、ザンマったら。変な冗談ばっかり。……ふふっ」
本気で言ったのに完全に冗談だと思われてしまったことはさておき、エリシアの口から笑い声がこぼれて少し安心した。
これから旅に出ようというのだから、せめて笑顔で出発してもらいたい。
彼女は簡単に『街の教会で仕事を済ませたら』と言っているけど、僕の幼い頃の記憶が確かなら、街に着くまでに道中の村々にある教会に立ち寄って、祈りを捧げて回るものだったはずだ。
すぐに街に行けるものだと思っていたのに、寄り道ばかりするものだから退屈だったことを、幼心にはっきりと覚えている。
「大変だろうけど、頑張ってね」
「はい。……行って参ります」
最後は真面目な顔をして、僕とエリシアはひとときの別れを迎えた。
くるりと背を向けたエリシアのブロンドの髪が、風に乗ってふわりと舞った。
不意にぎゅっと胸が苦しくなった。
一歩、また一歩と彼女の背中が小さくなっていく。
その度に、僕の目の前に広がる世界から、少しずつ色が失われていく。
「いって……らっしゃい」
最後まで言えなかったその言葉。
彼女の背中がほとんど見えなくなって、ようやく口にすることができた。
そのとき、山の方から低い地鳴りのような音が聞こえた気がした。
……きっと、ただの空耳だったんだろう。
そう思って教会の入口に目をやると、いつの間にそこにいたのか、カルナが険しい顔をして立っていた。
朝の光を背に受けたその横顔は、逆光の中で淡く沈み、いつもの快活で人あたりの良い彼とは、まるで別人のように見えた。
――“数百年に一度の災厄”が訪れたのは、それから間もなくのことだった。
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