ディオヴロフト ~県立自殺相談センター特務部戦闘課課長 守久井有人~

塩漬け肉

第一話 前編

 昔の事だ。

「おとうさん……」

 齢六つほどの少年が、父親に対して恐怖を示していた。

「大丈夫だ……怖くないぞー……お母さんの所に行くだけだからなー。お父さんも一緒だからなー……」

 それに対して、父親の声は穏やかだ。

「……い、や、やだ……」

 母親に会いたくないのか、それとも何か他の理由があるのか。

「そんな事言うなって。ほら……」

 父親が穏やかに、諭すように話しかけているにしては、異様な怯え方だった。

「やだ、やだ……!」

 終いには父親も諦めたのか、ため息を一つ吐いた。

「……じゃあ、いいよ。もう……」

 一人で、玄関のドアを開き、家を出るようだった。

 それっきり、静寂が部屋を支配した。鍵をかける音はしなかった。テレビの音も、会話の音も無かった。

 その時、ぽとり、と音がした。敷いてあるカーペットに水滴が垂れた。

「あッ……あァっ……」

 すぐに、少年の口から堰を切ったように嗚咽が漏れ出した。



 住宅街をふらふらと歩く若者がいた。ブレザーの制服も着ている事を考慮すると、中高生だろうか。

「早く……」

 若者は何か、黒い波動を発している。

「帰らなくちゃ……」

 言葉とは裏腹に、足取りは重くおぼつかない。

 不意に、俯きがちだった顔を上げた。そして、目には涙を湛えながら、薄ら笑いを浮かべる。

 今日は暑い。熱中症も、もしかしたら起こるかもしれない。

 ならばこれは事故だ。不運で悲しい、ただの事故だ。そう思った事が、最後の一押しになった。黒い波動が、また強くなる。

 強く、強く……そして閾値を超え、若者は変貌した。黒く悍ましい、頭の潰れた怪人に。

「対象の発生を確認」

 監視カメラ越しにそれを見て、呟く者がいた。

「作戦開始」「戦闘課を現場へ派遣します」「一般人の通行及び情報漏洩を制御します」

 号令と共に幾人もの大人が迅速に行動し、何かが始まろうとしていた。


 窓から入る陽光が床をジリジリと灼く、残暑の昼下がり。喫茶店にある男がいた。

 短く立っている黒髪、身長は平均よりやや高く、体形は筋肉質で締まっている。合皮の服を着て、カウンター席にいる。

 伽藍堂の中一人で利用している、という訳でもなく、幾人かいる客の一人で、特段何か変わった所は無い。強いて挙げるとするならば、サイダーを頼んだ他は何も口にしていない事か。

 しかし店主には、ちまちまとストローで飲んでいる彼を鬱陶しがる様子は無い。

『ピロピロピロ』

 その時、男の腕時計型端末が音を発した。瞬間、男の表情が変わる。

「守久井です」

『対象発生、区画ニから区画ホへと移動中、急行されたし』

「了解」

 男——守久井すくい有人ありとはストローを使わずにサイダーを一気に飲み干して立ち上がり、マスターに対して謝罪する。

「ごめんマスター、お代は後で」

「構いません、行きなさい」

 店主の方も理解しているようで、それ以上の言葉は無かった。

 有人は外に出てバイクに跨がり、区画ホの『対象』へと急いだ。


「この辺りか」

 区画ホ——住宅街に到着した有人は、バイクを降り、対象を探す。区画ニと区画ホの数少ない接続点で、一番大きいのがここだ。

「……っと、いたいた……」

 炎天下を少し歩いた道の真ん中に、それはいた。

 黒か焦げ茶のような色で、泥が蕩けたように見える光沢のある肉体に、頭部だけは弾けたような、割れて飛び散ったような見た目をしている怪人——ジャンピングスーサイダー、即ち今回の対象だ。

「あ、ぁ……死に、たい……」

 どうやら自殺にちょうど良い場所を探して彷徨っているようだ。

 一歩、そしてまた一歩、と。有人は対象を見据えながら、少しずつ接近する。

「人の自殺に待ったをかける」

 声をかけると、ジャンピングスーサイダーはゆらりとこちらに顔を向ける。

「死を望むたあ全く泣ける」

 言いながら、どこからともなく手に持った黒い何か——ドリンクドライバーをヘソの下に当てる。

『シュルルルル』『ドリンクドライバー!』『カチャ』

 瞬時にベルトが伸展し、服の上からドライバーをいつもの位置に固定する。

「お前の気持ち、俺が受け止める」

 決意を口にし、ポケットから取り出した、白い何かが入った小さなコップ——ジャンピングフレーバーグラスをドライバーにセットする。

『飛び降り!』『サックアップ!』

「励起」

 ストローがグラスの中身を吸い出し、黒い素体に白い翼のような装飾のある、白い装甲を形成する。

 これが、ディオヴロフト——守久井有人のもう一つの姿であり、彼の力の名前でもある。

「……フッ!」

 ディオヴロフトは対象に向かって走り、胸部に殴打を食らわせた。

「ぐぅ……!」

 攻撃を受けよろめくが、すぐさま反撃の体勢を取る。対象は腕を振り回し、彼への牽制を試みる。

「よっと、さて、どう出る?」

 彼はそれを躱し、対象の隙を疑う。この様子を見て、対象は警戒度を高めた。こいつは、通りすがりで自殺を止めに来た人間ではない。それを理解した。

「グ……」

 このままでは、仮に飛び降りたとしても、恐らく何らかの手段で救助されてしまう。自殺を完遂できない。対象はそう思った。故に、少なくとも彼を行動不能に追い込まなければ、自分には何もできない。

 この人生を終わらせるために、苦しみから解放するために、してあげるために、彼と戦わなければならない。

「来ないならこっちから……!」

 そうこうしている内に、彼の方が先に動いた。

 ジャンピングフレーバーグラスを立てて外し、代わりに水色のグラスを取り出した。

『低温!』『サックアップ!』

 フリージングフレーバーグラスを装着し、傾けた。すると、白い装甲はそのままに、翼のような装飾が消え、水色の氷のような装飾が付いた。

「試させてもらうぜ……オラァ!」

 彼は対象に向かって力を使った。すると彼の周りの空中に氷柱のような氷塊ができ、対象に向かって次々と飛んでいく。

「あ゛っ、でッ、邪魔だッ!」

 初めの数発は多少はダメージを与えられたようだが、次第にパンチでバラバラに砕かれて落とされている。効果的、とはとても言えそうにない。

「こんなもんか」

 フリージングフレーバーグラスは今回初めて使った。能力の使い方や、『違う力』に対してどれほどの効果を発揮するかを試している。

「グゥッ……」

 今度はこちらとばかりに、対象は高く飛び上がり、彼に蹴りをかます腹積もりのようだ。

「うオわーーッ!」

「うーん」

 彼はチラリと後ろを見た。ここは住宅地で、後ろには普通に民家がある。故に、

「仕方無え」

 彼の沢は絞られる。腕を前に伸ばし、手の平を広げ力を放った。

「うおー! 踏ん張れ俺!」

 氷を前面に生成し、壁として防御した。が、バキバキと氷が砕ける音がする。彼は氷だけに頼るのをすぐさま諦めた。

 彼は前腕を防御のために正面に合わせ、氷を突き破った対象の蹴りを受け止め、弾き返す。

「ガぁっ」

 渾身の蹴りを防ぎ切られ、対象はゴロゴロと転がり、そこに大きな隙が生まれた。

「おっしゃ、こっちの番だ!」

 隙を逃さず、地面を踏み付ける。そこから地を這うように力が伝わり、地面が凍っていき、対象はアスファルトに縫い付けられた。

「よっし、これは良い使い方だ!」

 冷えた白い息と共に、そう呟いた。九月と言えど、超人の腕力と脚力と言えど、数瞬以上は行動を止める事ができた。

『飛び降り!』『サックアップ!』

 そして、それだけあれば十分だった。

 フリージングフレーバーグラスを外し、ジャンピングフレーバーグラスをセット。再び形態を戻す。

 グラスを立て、間髪を入れず再び傾け、彼も同じく飛び上がる。ストローがエネルギーを吸い出し、それを収束させた右足を前に出し、対象に向かって『飛び降り』る。

『飛び降り蹴り!』

「君に救いあれ!」

 そう言うや、彼は重力加速度を無視した移動をし、対象を思い切り蹴り付ける。

 刹那、やっとの思いで手足と地面とを固めていた氷を砕いた対象の目と、彼の目とが合った。

「グ……アアあァァアア……!」

 苦悶か、それとも悔しさの発散か、対象は歪んだ声を上げながら道路を転がり、活動を停止した。

「……」

 ディオヴロフトはグラスを立て、そのまま外した。すると装甲も素体も消え、元の守久井有人の姿に戻った。

 有人は動かない対象に、ジャンピングフレーバーグラスを向ける。

『サックイン!』

 すると、対象は光の粒子となって舞い散り始め、やがてその全てがグラスに収まった。真っ白だったグラスの中身は、白と黒の光の粒子を吸い込んだ後は、少し黒ずんでいた。

 さて、そこに残ったのは、たった今スーサイダーを倒した有人。

 そしてスーサイダーの宿主の、中学生ほどに見える、一人の少女だった。

「こちら守久井。状況終了、宿主を一時的に保護した。回収は前回同様、喫茶ベラルーナにて行う」

『了解、回収要員を派遣する』

「……ふー……」

 有人はここで、ようやく肩の力を抜いた。

「っと、そうだった、起こさなきゃ」

 有人の常識によれば、人をそこいらのアスファルトの道で寝かせておく訳にはいかない。それが幼気な女子中学生ともなれば尚更だ。

「おーい、もしも~し」

 声をかけ肩を揺すってみるが、覚醒しない。眼鏡のつるがアスファルトに擦れてギィギィと音を立てている。

「あれー? ちょっとー? このままじゃ俺不審者一直線なんですけどー……」

「ん……」

 と、独り言を呟いていると、彼女の意識が戻ってきたようで、微かに声を出しながら薄く目を開けた。

「おー起きた。おはようございまーす、お昼でーす、こんにちはー」

「んーぅ……」

 まだ意識は半覚醒状態のようで、なんとなくで眼鏡の位置を直している。呼びかけに対するはっきりとした返事は無い。

 これはあのカードを切るしか無さそうだ、と有人は瞬時に考え、即座に実行した。

「君学校どこ? つかどこ住み? SNSやってる?」

 すると一瞬で意識レベルが吊り上がり、それと共に眉尻も吊り上がった。眉根は寄せられ、つまりは不審者を警戒する表情になった。

「……冗談だって、いやほんとに。お陰で目覚めたでしょ?」

 事実に基づく言い訳をしても、彼女の表情は変わらない。しかし距離は一歩分取られた。

「ちなみに俺こういう者でーす」

 一旦彼女の素性を聞く事は置いておき、有人は名刺を差し出し、自分の素性を明らかにする選択を取った。

「……」

 声すら聞かせたくないのか、無言で名刺に手を伸ばす。しかし、その表情は文字を追うにつれ変わる。

「自殺相談センター、特務部、戦闘課課長……」

「そう。守久井有人って言いまーす」

 人間、身分にある『長』という文字に弱いものだ。それだけで、部下がいる、集団を引っ張っている、しっかりした人物である、等と想像を膨らませる。

「……よく分かりませんが、そんな方がここで何をしてるんですか?」

 効果は覿面に表れた。警戒は大分薄まったようだ。警戒の表情ではなく、怪訝そうな表情になった。外から見れば変わらないが、会話を始めた事がその証拠だ。

「逆に聞くけど、君こそ何してたの? それ制服だよね、あっちの中学の」

「え、はい……」

「制服って事は、帰り道かな? でもまだ昼だ。しかし今は九月の初め。つまりは始業式で半ドンかな? どう、俺の推理合ってる?」

「はんどん……?」

「あ、そっか、今時の子は半ドンって分かんない?」

「すみません……」

「いやいや。あーつまり、午前中で学校終わった? っていう事」

「あ、はい、そうです」

「よっしゃ! ちなみに今の子は半ドンって何て言うの?」

「まず普段は午前中で終わる事が無いので、何て言うか分かんないです」

「あーそうなんだ。まあ俺の同級生でさえ半ドンが分かる奴過半数ってくらいだったもんな……」

「あの、話が……」

 このどうでもいい話で、彼女の有人個人に対する警戒は無くなった。それを知ってか知らずか、有人は話を戻す。

「ああ、全然関係無いね。えっと、君は午前授業でもう帰っていた、と」

「はい」

「そこまではいいけど、その後君、何しようとしてた?」

「……そ、れは……」

 言い淀むのは、それが世間的には口に出すのが憚られるような事だったからか。それとも、悪戯の企てが白日の下に晒された子供のような心持ちだからなのか。

「……ま、それが理由だよ。自殺相談センターの職員が、ここにいる理由はね」

 有人も、敢えてそれを口に出して彼女の気分を害する事はせず、はぐらかすような返答の仕方をした。

「さ! それじゃ行こうか!」

「は? え、っと、どこにですか?」

「まあとりあえずはこっち来て」

 有人はそう言って、彼女と共にバイクを停めた所まで戻ってきた。未だ冷気の残る空間から離れ、汗が再び滲んできた。

「はいこれ。付け方分かる?」

「多分……」

 バイクの後ろのケースから取り出したのはヘルメット。それを彼女に渡し、自分はハンドルにかけておいたヘルメットを被る。

「ま、二ケツってあんまり良くないけど……掴まっててね」

「え、え……」

「しゅっぱーつ!」

 彼女の何か言いたげな様子は無視された。


第一話前編 いつもの仕事

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