花天月地【第50話 北の悪魔】

七海ポルカ

第1話



元譲げんじょう


 呼ばれて振り返った。

 そこにいた者達全員が慌てたように膝をつき頭を垂れたが、夏侯惇かこうとんだけは腕を組んだまま振り返り、昔のまま「よう」と手を上げてみせる。


「ここにいたのか」


「最近ろくに剣を振っておらんからな。腹でも出てきたらムカつくからたまにはやらんと。

 孟徳もうとく。暇か。狩りに行きたい。武芸の心得ある女連れて来てもいいから狩りに行こう」


 二人で歩き出して、曹操そうそうはそんな風に訴えてきた夏侯惇を笑った。


「まあいいがな……しかしこの季節ろくな獲物がいないだろうよ。獲物を待って凍えるのは好かん。狩りはやはり春か秋だ」


 不貞腐れたように夏侯惇がそっぽを向いている。


「だが俺も最近退屈している」

「おっ! そうだろ?」

「遠乗りに行こう」

「遠乗りか。まあ城でジッとしてるよりはマシだな。いいぞ。決まったらすぐ行こう」


 二人は連れ立って自分達の馬が管理されている馬房に向かった。


涼州りょうしゅうはどうなってるかなあ」

天水てんすいあたりで迎撃に遭えば、そろそろ報告が来ると思うんだがな」

「あいつらがし損じたら俺が遠乗りついでに狩り出てやるのに、司馬懿しばい賈詡かくじゃそんなヘマもしないだろうな」

 夏侯惇はつまらなそうに言ったが、ふと何かを思い出したようだった。


「そういえば……孟徳もうとく郭嘉かくかがここに寄った時、なんか少し様子が変じゃなかったか?」

 ほう、という顔をして曹操そうそうが夏侯惇を見た。

 郭嘉と昔『夏侯惇かこうとんは非常に勘の鋭い男なのだが、それを表現する術が壊滅的に欠けている』という話をしたことがあった。


 確かにそうなのだ。

 何かを察知しているのに、言葉に上手くこの男は表現出来ない。


「なんか匂う」とか「なんとなく変だ」とか「なんか知らんがこめかみがピリピリする」とかそんな言い方しかしないので「わからん」で曹操も済ませて、あとで大事になり「やっぱりな」などとしみじみ言ってる夏侯惇の首を「このことだったなら早く言え」と何度絞めたか分からなかった。


 この男は勘はいいのだ。


「何かとは? 体調は良さそうに見えたが」


「まあなあ~。しかしあいつは面の皮が厚いからな。前にぶっ倒れた時も倒れる数秒前まで平気な顔をしていた。だが、今回は体調のことじゃない。あいつは俺やお前の許に来ると大概本気で気を抜くのに、なんか…………戦の匂いがしたぞ」


 曹操は苦笑する。

 なんとか絞り出して、この表現だ。


郭嘉かくかは涼州遠征中だ。戦の匂いがするのは当たり前ではないか」

「そういうんじゃなくてだな……なんていうか、……分からんが、あいつが俺達の前でああいう殺伐とした空気を見せるのは戦場以外じゃ非常に珍しいと」


 郭奉孝かくほうこう長安ちょうあんに寄った折、久しぶりに曹操や夏侯惇と話せると随分嬉しそうだった。


 郭嘉も夏侯惇同様、曹操が帝位についたあとも、全く接し方が変わらなかった。

 公の場ではきちんと礼儀に則って、皇帝に対しての仕草をするのだが、私的に曹操に会う時は今まで通りだ。


 これが皇帝の持ち物ですかと身の回りのものを手に取って、その珍しさに、子供のように目を輝かせていた姿を思い出す。


 それに重ねるように「皇帝になっても私に膝をつけと命じるな」と言った荀彧じゅんいくが、美しい所作で自分の前に膝をつく姿が浮かび上がる。


 別に膝をつけなどと言ってないのに、荀彧はそうするようになった。

 当てつけているのではない。

 荀彧は言っていた。


「貴方が変わらずとも、周囲の貴方を見る目が変わるのだ」と。


 荀彧は自分に膝をつきたくなかったのだと曹操は思った。


「俺は荀彧の気持ちは分かる。俺もお前に、生涯膝をつきたいとは思わない。

 しかし決して膝をつくものか、とは思わん」

 

 夏侯惇かこうとんはそう言った。

 郭嘉も夏侯惇に考え方は近い。


 いつまでも曹操との友情を重んじたいが、別に膝をつくことで自分達の友情の価値が変わるとは少しも思っていない。

 膝をつこうが、

 膝をつくまいが、

 この二人は全く変わらない。


 結局荀彧じゅんいくは曹操との友情と同じくらい、帝に対しても畏敬の念を抱いているのだ。

 どっちも疎かにはしたくなくて膝をつきながら、段々と表情を失っていく荀彧の顔を見るのは嫌だった。


「俺が供につく。護衛はいい」


 長安ちょうあん周辺は八つの砦とそれを繋ぐ防衛戦に守らせている。

 それでも間者や暗殺者は荷に紛れて入ってくるわけだが、この周辺であるなら、夏侯惇が一緒なら、曹操は未だに二人で遠乗りに出ることがあった。


 暗殺されたら、その時はその時。

 曹操は若い時から夏侯惇に言い聞かせていた。


「荀彧を、許都きょとにやろうかと思ってる」


 馬に乗って気安く城を出て行くと、曹操が不意に言った。


「そうか」


 夏侯惇かこうとんは頷いた。


「その方がいいかもしれんな。あいつなら子桓しかんのいい補佐になるだろう」


 心地よく返ったその言葉が、曹操を少し慰めた。

 

「ああ」

荀攸じゅんゆうは一足先に許都にやるんだろ?」

「うん」

 

 長安からも随分人が去って行く。


 次の時代か。


 夏侯惇は少し思いを馳せた。


「お前なら荀彧をどう使う」


「難しい戦線は江陵こうりょうだな。あそこは他国の戦線の影響も受ける。との交渉は重要だし。

 送り込むなら郭嘉かくかか荀彧だ。郭嘉は人をたらし込むのが上手いが、才故に人を警戒させるところもある。

 落ち着かせるなら荀彧だろうな。

 合肥がっぴは明確な呉の防衛線だから、荀攸じゅんゆうの方が適役だ。

 郭嘉は涼州りょうしゅう方面に放つと面白い仕事をするかも」


「風邪を引かなきゃいいんだがな」


 夏侯惇は苦笑する。


「あいつは子供の頃からどこでも潜り込むからなあ。

 噂の【臥龍がりゅう】とやらを見てみたいなどと、賈詡かくの目を盗んで成都せいとに潜り込んでそうで怖いぞ」

 

 曹操も声を出して笑った。


「俺も何度か死にかけたことがある。

 命からがら生き延びて思うことは『二度とこんな危ういことはごめんだ』ということだ。

 そう思っては、三日もすればそのことを忘れてる」


「お前アホだろ」


「事情は違うが、郭嘉は死の淵から蘇って、すぐに戦地に行くことを望んだ。

 普通の人間はそうは思わん。

 お前が感じ取ったのは郭嘉の高揚感だろうな。あれも異質な才だ。

 元譲げんじょう。郭嘉がもし涼州の戦線に残りたがったら、お前はどうする」


「お前はどうするって……なんだ」


「俺も戦術家でもあるからな。郭嘉が離脱する前はあいつを俺の軍師に据えて、お前を戦場で自由に使わせるのが楽しみだった。郭嘉ならお前を持て余さんぞ」


 顔を背けるような仕草をし、唯一の瞳で曹操そうそうを見た夏侯惇は肩を竦めた。


「なかなか面白そうな提案だが、遠慮する。そんなこと言ってお前長安ちょうあんでどんな自堕落な生活をするつもりだ。俺よりお前の方が余程心配だわ。

 お前には俺が必要なんだから、簡単に郭嘉かくかにくれてやろうとかするな、馬鹿め」


 夏侯惇は辛辣に言うとハッ、と馬に合図を出して駆けて行く。


 ――曹操は目を細めて笑いながらその姿を見た。


 曹操自身がそういう風に感じたのではなかったが、夏侯惇に言われて思い返してみると、確かに郭嘉の様子が少し変だったかもしれないとそう思う。


 赤壁せきへき周公瑾しゅうこうきんのことを聞きたがったりと、珍しく感傷的な顔を見せた。


 しかし珍しいが、郭嘉は実は周囲に思われているよりずっと感情を押し隠すのが巧みというわけではなく、十代前半の頃は戦場を連れ回していると、些細なことで苛立ったり、腹を立てたりしていたのもよく知っている。

 今は随分感情を抑える術を手に入れたようだが、郭嘉は本来、非常に感情表現は豊かな男なのだ。


 何か、郭嘉の感情を波立たせるものがあったのかもしれない。


 ずっと長く従軍出来なかった、戦場に再び解き放たれた喜びかとも思うが、遠征途中に近くへ来たから「ただ顔を見に来た」などというのもいかにも郭嘉らしく、さほどのことではないように思う。


 少年時代から――郭嘉かくかを戦場に連れて行った。

 色んな土地に連れ出して、色んな戦を見せて来た。


 色んな人間を。


 今度は長安から動けない自分に、郭嘉が色々な所へ行って話を聞かせる番なのだ。




(郭嘉よ!)




 曹操は馬に合図を出し、瞬く間に夏侯惇の脇をすり抜けて追い越していく。

 清々しい草原の風を全身で感じながら、曹操は遠い地にいる友に心で語りかけた。



(新しい、広い世界を見ているか。

 ――その輝く瞳で!)



 鳥が上空を駆けていく。


 見上げながら駆ける曹操に、追いついて来た夏侯惇が声を掛ける。



「おい! そんなに飛ばしてどこに行くつもりだ孟徳もうとく


合肥がっぴまで! 長江が見たい。ついてこい! 元譲げんじょう!」 



 笑いながら逃げ去っていく。


 夏侯惇は数秒後、隻眼を瞬かせた。


「ああっ⁉」


 ふざけるなとか、荀彧じゅんいくに殺される! とか、ありとあらゆる夏侯惇の罵声を背中に聞きながら、曹操は馬を駆らせた。


 もしかしたら、これで長江を見るのは最後になるかもしれない。


 曹操は自分の死期をまだ感じていない。

 暗殺などの類いなら、明日に命を奪われるかもなと達観出来ても、寿命ではまだまだ死ぬ気がしていない。


 命があるなら、またいつでもどんな手を使ってでも来れるだろうが、何となくこうやって夏侯惇と二人、草原を気ままに駆けて長江まで行くのは、何故か最後のような気がした。


 単なる気のせいかもしれないし、そうではないかもしれないし。


 人には死は一つだ。

 死んだら全てがそこで終わる。


 だが人生には『死』がいくつか訪れるらしい。

 一つ目の死が近づいて来ている。

 それだけは強く感じた。


 だからこのまま駆けていきたいのだ。

 悪態をついている夏侯惇など、じきに諦めてどこまでもついてくるに決まっている。

 こいつは少年時代からそうだった。 


 死の底から蘇った郭嘉は、曹操が昔から望んで来たように、

 自由に、また羽ばたき始めた。


 後ろを振り返った。


 夏侯惇がいる。

 その側に荀彧もいたら嬉しかったのにな、と曹操は素直に思った。


 仕方ない。


 何もかも思い通りにはならないのが人生だ。


 荀彧はきっと、それを自分に最後に教えたのだ。



(それでも絶望することは無いのだということを)



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