名無しの幽霊と感情を忘れた君
椎野樹
第1話 玲という少女
「……ねぇ……」
声が、聞こえた。
「…………ねぇ」
玲は河川敷の下にある河原からその声がするのを聞いた。それは不可知の声であり、明らかに人ならざるものの声であった。
河原には腰に届くほどの高さのイラクサが繁っている。七月に向かい気温の上昇とともに、河原の野草も勢いを増している。玲は誰にともなく呟いた。
「嫌ですね……ここを行くしかないですか……」
玲は着ている制服のスカートを見下ろした。スカートからは素肌が見えている。
「このまま行くと、かぶれてしまいますね」
仕方なく、立ち止まった。背負っていたリュックを下ろして、中から学年指定の赤いジャージのズボンを取り出して履く。
改めてイラクサを掻き分けて玲は声のする方向へ踏み込んでいく。踏み潰すごとに青臭い匂いがむわりと立ちこめる。
玲は河原の中程で立ち止まった。遠くには街道の喧騒が聞こえるが、ここまで来るとどこか遠くの異世界のことのようだ。この世界では野鳥たちの睦み合う声が主役である。それにも耳を貸さず、不可知の声に意識を集中する。
「ここかな……」
その『声』は地中から聞こえてくる。辺りを見渡して何か道具になるものは無いか探した。幸い、すぐ近くの川辺に半分朽ちたブリキのバケツを見つけた。これなら土を掘ることができそうだ。
そのバケツを取ると『声』がする地点を掘り返し始める。二度三度と土へと突き立てるうちに後悔した。やはり土を掘るための道具ではないバケツでは、一度土をすくうだけでも相当な力がいる。渾身の力を込めて土にバケツを突き立てる。
額を流れる汗が眼に入りそうになるのを拭う。腰の辺りに鈍い痛みが生じ始めている。
玲がいい加減に諦めようとした時、それは現れた。はじめそれは土に汚れた白い石の塊のように見えた。
頭の中で声が止まる。
「……なるほど。声の正体はこれですか」
バケツを捨ててそれの周りの土を手で掻き分ける。引っかかりを感じたので指を掛けてひっばると、意外なほどあっさりとそれは穴から抜けた。
土の中から出て来たそれは、髑髏。いわゆる頭蓋骨だった。大きさから察するに犬などの動物の物ではなく人間のそれだろう。玲の指は頭蓋骨の目に当たる空洞に引っかかっている。平然とそのまま頭蓋骨を地面に置き、付近に生えている雑草をむしり、こびりついた土を拭ってやる。軽く手を合わせて一礼する。
***
その日の数時間前。とある学校の教室で二人の少女が話している。
静かな放課後の校舎で、二人の声だけが響いていた。
「……ねぇ、聞いた? 三組の高野さんが高熱出して倒れたらしいよ」
「聞いた。またあの子に関わった子よね」
学校の廊下にて、二人の生徒が話している。彼女たちは声をひそめて、教室の中で一人で座っている少女を窺っていた。
「変だよやっぱり! 玲に関わった人ばかり次々と倒れてる!」
「ちょっとみすず、大きな声出したら聞こえるよ」
「だってそうじゃない! 高野も玲に話しかけた次の日に倒れた! やっぱりあの子は呪われて……」
生徒の一人がそこまで言った時、教室の中で玲と言われている少女が立ち上がった。
二人はギクリと肩を震わせた。
少女は教室の後部にあるロッカーまで歩いていき、荷物を取り出し、背負った。
そのままスタスタと教室の出入り口まで歩く。教室の入り口にいる二人をジロリと睨みつける。そして、みすずと呼ばれる生徒の前で立ち止まる。
「……貴方、もう憑いてますよ」
みすずは、ひっと小さく悲鳴を上げた。
「逃げよう! こんな子に近づいたらダメよ!!」
「私に変なことしたら絶対に許さないからね!! もう学校に来るな!!」
二人の生徒は慌ただしく逃げていく。玲は無表情でその様子を観察していた。
玲は一人で西陽が差し込む校舎の中を歩く。窓からは校庭が見えて、そこには部活動をしてる生徒たちが走っている。
ふと廊下で立ち止まり、誰もいない通路の方を向いた。
そこには人間の形から少し崩れた異様な存在が座り込んでいる。玲の存在を認めると顔を上げた。
じっとそれを見つめると頭を下げる。
「……道は分かりますね? 迷わずに成仏してください」
異形の存在は頷き、再び俯いた。
玲は興味を失ったように、再び生ぬるい西陽のさす廊下を歩き始める。
校門を抜けて、家に向かって帰路についた。その側を同じく帰宅途中らしい男子生徒たちが自転車で並びながら走ってゆく。
玲は淡々とそれらの光景を眺めていた。生徒の一人の背中には影が張り付いている。玲は呟く。
「多いですね。お盆が近いせいでしょうか?」
男子生徒たちは玲のそばを走り抜けていった。
「……まあ、無害な浮遊霊ですね。祓うほどもありません」
再び歩き始めた。リュックに結びつけてある鈴が一歩ごとにチリンと鳴る。
生徒たちが走り去った後は、奇妙なほどの静寂が広がった。歩む先は結界でも張られているかのように人通りが絶えていた。
玲は一人で黙々と土手沿いの河川敷を歩いている。七月も半ばで、制服も夏服である。
河川敷の川沿いでは青々と雑草が伸びている。ひぐらしの声が遠くから聞こえる。川沿いの涼風が吹いて、おかっぱ髪の前髪を揺らしていった。
歩く先にはなぜか人通りがなかった。時間帯も下校時間からは少しずれている。周りには不思議と人影が途絶えている。意図的に人混みを避けて通る道を選んでいるのだ。人々の気配が消えた静寂の中でさえ、玲の耳には見えない存在たちの囁きが絶え間なく届いていた。
「……ふぅ」
立ち止まって河川敷の遊歩道から川べりを眺める。世界は玲がひとりぼっちであり、そんな彼女を成長する入道雲が見下ろしていた。日は傾き初めており、夏雲にもうっすらと翳りが出来始めている。
ひとしき夏空を見上げた玲が、退屈して歩き出そうとした時、頭の中に声が響いた。その瞬間、全身の肌が粟立つのを感じた。
「……ねぇ」
玲はため息をひとつ付くと、その声がする方に向かって歩き出す。
声の主が頭蓋骨であり、この後、多大な厄介ごとをもたらすことについては、玲は微塵も考えてもいなかった。
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