第二十八話 嵐の夜(一)

 ◇◇◇◇


 その日の昼間から空を覆っていた暗雲は、夕刻になるとさらに厚みを増し、やがて雷鳴とともに激しい風を伴い始めた。


 木々が軋み、雨戸が音を立てて揺れる。


 低くうねる激しい風が古びた旧邸の屋敷全体を軋ませる。

 窓を叩く雨の音が、不穏な気配を運んでくるかのようだった。


 遠くで、雷鳴が轟く。

 文緒は廊下に出て、窓越しに夜空を見上げた。


(なぜだろう、すごく嫌な予感がする――)


 文緒の胸の奥に、得体の知れない不安が広がっていった。


 そしてその予感は的中してしまう。



 空黎の容態が、急変したのだ。



 天候の悪化は、いつも空黎の容態に少なからず影響を及ぼしていた。


 曇りや雨の日は、体調がすぐれないことが多い。

 食欲も落ちがちで、気圧の影響なのか一日中寝台に横たわっている時間が増えて、気分も沈みやすくなる。


 でも、それは天気とうまく付き合っていけば乗り越えられるものだと思っていた。


 ――けれど、この日の嵐は違った。


 それまで文緒が見たことのないほど、空黎の顔色が急速に青ざめていく。


「……っ、空黎様?」


 呼びかける声に応じることなく、空黎は寝台に横たわり、荒い息を繰り返している。


 不規則に大きく上下する肩。

 まるで胸の内側を何かに締め付けられているかのような、掻きむしるようにしながら苦しげな表情を浮かべている。


 文緒は慌てて空黎の傍らに駆け寄った。


「空黎様、大丈夫ですか!?」


 額に浮かぶ冷や汗。

 震える唇。

 何より、触れた手が氷のように冷たい。


「……っ、空黎様!」


 文緒の声が震えた。


 空黎はただ、苦しげに息を吐くばかりで、文緒の呼びかけに応じることすらできない。


 天候の影響で容態が悪くなることは今までにもあった。


 でも、これは明らかに今までとは違う。


 何かが――異変が、起きている。


「刹那様に連絡を入れたのですが、この嵐で他の往診先からここに到着するまでには時間がかかるとのことです」


 楠上の声には、珍しく焦りが滲んでいた。


 時間がかかる――それはつまり、今すぐには助けが来ないということ。


 文緒は空黎の苦しげな寝顔に後ろ髪を引かれながらも、迷いなく襖を開けて廊下へと飛び出した。


 冷たいすきま風が廊下に吹き込む。


 それが着物の裾を揺らして足元から冷気が張りついた。


 けれど、躊躇している時間などなかった。


 文緒は廊下を小走りで玄関まで駆けていく。

 そして草履を引っ掛けると、嵐の中へと飛び出した。


 雨はまるで滝のように降り注ぎ、容赦なく文緒の肌を叩きつけた。


 ほんの数歩走っただけで、髪も着物もずぶ濡れになって冷たい雨が止めどなく背筋を伝だていく。


 ――それでも、足を止めるわけにはいかない。


 視界が遮られるほどの豪雨の中、文緒はひたすらに本邸へと向かって走った。


 ようやくたどり着いた玄関先で、文緒は空黎の容態の急変を伝えた。


 そして主治医の雪月花もすぐには来れないこと、誰でもいいから空黎の様子を見てくれる医者を呼んでほしいということ。


 けれど、応対した使用人からは


「あいにく、そのような事態に対応できる者はおりません」


 冷たい返事が返ってくるだけだった。


 意図的な突き放すような口調に、文緒の胸の奥が、ぎゅっと冷たいものに締め付けられる。


 文緒がそれ以上言葉を継ぐのを遮るように、

 本邸の扉が冷たく閉ざされてしまった。


 その重い音が、雨音にまぎれてかき消されていく。


 文緒は肩で息をしながら、しばらく雨に打たれたままその場に立ち尽くした。


 ――駄目だった。


 関わり合うつもりがない、という明確な拒絶が嫌というほどに伝わってきた。ぐっと唇を噛みしめると、文緒は踵を返して旧邸へと駆け出した。


 風が激しく吹き荒れて、着物の裾や袂を大きく翻す。水溜まりを踏みしめるたびに泥が跳ねて、草履は重くなった。


 冷たい雨が肌に突き刺さるようだったが、それでも文緒は止まれなかった。


 ――一刻も早く、彼のもとへ戻らなければ。



 ようやく旧邸の玄関にたどり着き、文緒は中へ入ると力いっぱい戸を閉めた。

 この嵐の影響なのか、また玄関の戸の立て付けが悪くなっている気がする。


 全身はすっかり雨でずぶ濡れになっていた。


「文緒様…」


 廊下の向こうで楠上が驚いた顔をして立ち尽くしている。手に洗面器を持っているので、空黎の部屋から出てきたところだと分かった。


 慌てて手拭いを持ってきてくれた楠上にお礼を言う。

 そして濡れた顔を拭きながら、それでも気になるのは空黎のことだった。


「あの、空黎様は…?」


「お変わりありません…激しい発作の回数は少し落ち着いたような気もしますが、苦しそうなのは変わらずで」


 足元にはまだぽたぽたと水の跡が残る。


 それでも文緒は肩を震わせながらもすぐに空黎の部屋へ向かった。


 部屋の襖を開けた途端、文緒の心臓が強く締めつけられる。


 空黎の呼吸はさらに苦しげになっていた。

 肩で荒い息をし、額には冷たい汗が浮かんでいる。


 文緒は急いで駆け寄ってそっと手を取ると、雨に濡れた自分の手よりも冷たかった。

 両手で包み込むようにするも、温めるには時間がかかるほど冷え切っている。


「…本邸では、何も対応できないと言われました…」


 文緒は震える声で楠上を振り返る。


「雪月花さんは…?」


「まだ到着しておりません…どうやら、街道がこの嵐で通れない箇所があるようで…」


 楠上の言葉が、雷鳴にかき消される。


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