第四章

第二十六話 本邸との距離

 文緒ふみお綾羅城あやらぎ家にやってきて、二週間ほどが経った。


 最初は重く感じたこの旧邸の空気も、窓を開けて光を入れ、少しずつ整えることで、どこか柔らかくなった気がする。


 朝になれば、文緒は決まって空黎くれいの部屋を訪れて朝食を届ける。


 以前のように拒絶されることはもうなく、今では「少しだけ」と言いながら、きちんと箸を手に取るようになっていた。


 昼間は文緒が旧邸の掃除や整頓をし、台所を使えるようになったことで、温かい食事を作ることも習慣になった。


 そうしているうちに、二人で過ごす時間も増えていき自然と何気ない会話をかわす機会も増えていった。


 たとえばある日の午後。

 文緒はお茶を淹れながら何気なく口を開いた。


「そういえば昨日、楠上くすがみさんにお味噌の種類を増やしてもらったんです」


「…味噌の種類?」


「はい。米味噌もあるのですが、麦味噌や豆味噌も試してみようかと思いまして。空黎様はどれがお好きとかありますか?」


「……どれでもいい」


 そう言いながらも、ほんの少し考え込んだように視線を落とす空黎。


「……昔は赤味噌を好んでいた気がする」


「では、次は赤味噌のお味噌汁にしてみますね」


「勝手にすればいい」


 そんな風にそっけなく言うけれど、文緒は分かりましたと笑顔で返す。


 初めの頃なら突き放されていると感じていたような返事も、今では少々のことでは動じることもない。

 むしろ、これは空黎なりの肯定であると文緒は理解できるようになっていた。


 こうして何気ない会話が日常になりつつあり、特に用事がない時でも空黎の部屋で過ごす時間が増えていく。


 文緒がそれを嬉しく思う一方で、空黎はそんな自分に違和感を覚えていた。


 食事をすることも、人と会話をすることも、いつの間にこんなに当たり前に戻っていたのか。


 この二年間、誰とも深く関わることなくただ静かに死を待つつもりでいたのに――と。



 ◇◇◇◇


 穏やかな日々の中で、文緒にはひとつ気がかりなことがあった。


 それはいまだに綾羅城家の当主――つまり空黎の父に挨拶すらできていないままであることだった。


 綾羅城家にやってきて二週間が経つというのに、顔を合わせる機会は一度もない。


 文緒はそれとなく楠上に相談してみたこともある。


「あの、そろそろ一度当主様にご挨拶をしたほうがよいのではないかと思っているんですけど……」


 すると楠上は決まって眉を寄せて、


「お忙しい方ですので…申し訳ございません」


 とだけ答えた。


 それ以上の詳しい説明はなく、話はそれきりだった。


(お忙しい……確かに、そうなのかもしれないけれど)


 楠上の様子は、どこか言葉を選んでいるようにも見えた。もしかして本当に、自分に会うつもりはないのだろうか。

 もしくは、そもそも旧邸に嫁いできた自分のことなどどうでもいいと思われているのか。


 当主ともなれば多忙なのは当然なのかもしれない。それにしても、ここまで無関心を貫かれるとはあまりにも不自然で、このことを考え始めると言いようのない不安が胸の奥に広がるのも事実だった。


 そして、もうひとつ奇妙なことがあった。


 禁じられていた窓も開け放ち、掃除をして旧邸での暮らしを整え、食事を作り、空黎のお世話をする。


 これほど自由に動いて好き勝手にいろいろやっているにも関わらず、内心覚悟していたお叱りや咎などもなかったことだ。


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