第三話 君と婚姻を結ぶつもりはない

 楠上が襖を静かに開くと、薄暗い室内が広がっていた。


 雨戸も障子窓も固く閉ざされている。細く引かれた隙間からほんのわずかに光が差し込むのみで、空気はひんやりと冷たく、どこか乾いていた。


 文緒の視線の先に一つの寝台が置かれている。


 その壁に寄りかかるように――彼はいた。


(空黎様………)


 目蓋まぶたは閉じられていて、起きているのか、もしかすると眠っているのか文緒は判断がつかなかった。



 文緒が空黎の姿を見たのは三年前。

 毎年春と秋の彼岸に執りおこなわれる祭祀の時だった。


 神事や祭祀の時だけの、特別な装いが一際目を引いた。

 艶やかな淡い亜麻色の髪に細やかに編みこまれた平組紐ひらくみひもの赤が、とても鮮やかだったことを覚えている。


 最強呪術師の名に相応しく、矜持高く、誰も寄せつけない雰囲気を纏っていて――それでいて、とても美しかった。



 あの時と同じ淡い茶色の長い髪が、今は一つに束ねられたまま肩から胸のあたりにかけて流れるように落ちている。

 肌は青白く、まるで薄い硝子のように儚い。


 静寂の中、くすんだ白い単衣ひとえを着た空黎がゆっくりと目蓋を持ち上げた。


 そして少しずつ、視線だけを文緒へと向ける。


 文緒の記憶の中にある空黎の琥珀色の瞳は、今は灰色がかって濁っていた。

 そのことに衝撃を受けて、文緒は一瞬、呼吸を忘れる。


「……君か」


 その一言だけが、部屋の中に落ちた。


 空黎は煩わしそうな表情で首を一度振ると、長い前髪が彼のまつげをなぞるようにして揺れる。


 文緒は震えることなく、ただ静かに見つめ返した。


「初めに言っておく」


 一瞬の沈黙のあと、彼は容赦のない言葉を投げかけた。



「君と婚姻を結ぶつもりはない」



 まるで感情のこもっていないような声。


 婚姻を結ぶつもりはない――拒絶ともとれるその言葉に、文緒は息を詰める。


「君は本條家に引き取られた養女なのだろう?」


 まさか今、空黎からその言葉が出るとは思わず、動揺で肩が震えた。


「…その通りです」


 文緒は、本條家の本当の娘ではない。

 まだ一歳にも満たぬ時分に本條家に引き取られ、養女として育てられた。


ていよく追い出されたか。父上はいったいいくら積んだ?」


 空黎がどこか冷ややかな言葉を漏らすと、楠上が即座に「空黎様っ」と咎めるように声を上げる。


 けれど空黎は気に留めることなく、光の宿らない鈍色の瞳で静かに文緒を見つめ続ける。


(違う……そんなことはない)


 本條家が自分を厄介払いしたわけでも、金銭に目がくらんだわけでもない。

 この縁談は、文緒が自らの意思で受け入れたのだから。


 文緒は小さく唇を噛み、静かに息を整えた。


 ――これは、彼の本心の言葉ではない。


 なぜだか分からないけれど、そう感じた。

 空黎がこんな言葉を投げかけるのには、きっと理由がある。


 文緒は静かに首を振って、一度だけ振袖の上から『お守り』に触れる。


 そして、まっすぐに空黎を見つめ返した。


「そのようなことはありません。私は…私の意思でこの縁談を受けると決めてここへ来ました」


 その言葉に空黎の目が僅かに揺れた。

 その儚げな顔を見つめながら、文緒はもう一度自分の決意を固めていた。


(この人を……支えたい)


 それは決して誰かに強いられた思いではなくて、文緒自身から湧き上がるものだ。


 その時、空黎の鋭い視線がほんの一瞬だけ揺らいだ。

 文緒の瞳を真っ向から受け止めきれないかのように、わずかに目を伏せて逸らされる。


 そして、その直後―――


「……っ、」


 突然、激しい咳き込みが空黎の体を襲った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る