第八章 帰宅

第八章 帰宅


第一話 おい、湊


 玄関のドアを静かに開けて、湊は靴を脱ぎながらリビングの気配をうかがった。

(まだテレビの音がする……)

気づかれないように廊下を通り過ぎ、自室へ向かおうとした――そのとき。


 「おい、湊!」

低く怒気を含んだ声が飛んだ。

「ただいまも言えねぇのか」


 (しまった……気づかれた)


 リビングのソファには、いつものように缶ビールを手にした義父が座っていた。目は赤く、すでに何本目かを空けている様子だ。


 「……た、ただいま」

「お前、最近また生意気になってきたな」

 「……俺は、普通にしてるだけだよ」

「口答えか。親に向かってその態度はなんだ?」


 (まただ……絡んできやがった)


 湊は肩にかけていたカバンを静かに床に置くと、くるりと踵を返し、玄関へと駆け出した。


「おい、こっちへ来いって言ってんだろうが!」

 追いかける声を背に、湊はドアを乱暴に開けて外へ飛び出した。


第二話 ファミレス


 逃げるようにしてたどり着いたのは、駅前のガストだった。

 店内はほどよく冷房が効いていて、現実とは少し遠い空気が漂っている。湊はカウンターでドリンクバーだけを注文し、アイスティーをカップに注いでから、空いている席へと向かった。


 隣のテーブルには、女子高生三人が座っていた。

「――あ、小野くん?」

顔を上げると、クラスメイトの佐倉だった。隣には太田、そして向かいには須藤。

 「お、佐倉か。……太田に、須藤も。ははぁん、なんか悪だくみか?」

「なによそれ、そんなわけないじゃん」

 「ゴメン、冗談、冗談」

「ねえ、小野くんもこっち来なよ。ひとりで飲んでてもつまんないでしょ?」

 「……まあ、別にいいけど」


 言われるままに席を移ると、太田がニヤつきながら声をひそめた。

「ねえ、ちょうどよかったんだ。小野くんに聞きたいことがあってさ」

 「……まさか白鷺のことか?」

「ピンポーン!」

佐倉が指を立て、ちょっとだけ悪戯っぽく笑った。


「新庄にも聞いたんだけど、映画行ったってマジ?」

「ああ、行ったけど」

テーブルの三人が一瞬、固まった。


「ねえ、小野くん」

アイスティーをひと口飲んだタイミングで、佐倉が身を乗り出してきた。

 「なに?」

「ぶっちゃけ聞くけどさ――あんたと白鷺さん、付き合ってんの?」


「……付き合ってねぇよ」

即答すると、太田があっさりと笑った。

「だよねー。白鷺さんとじゃ、ちょっと不釣り合いって感じ?」

「は?うるせえよ」

思わず声が尖ったのを自覚して、湊は少し顔を背けた。


「ねえねえ、小野くんから見てさ、白鷺さんってどんな子なの? めっちゃミステリアスじゃん、あの子」

須藤が楽しそうに問いかけてくる。


 「……どんな子って。普通だよ、普通の女子高生」

「いやいや、普通じゃないって。あの完成度、異常だよ」

佐倉がすかさず反論した。


 「いや、おれから見たら……佐倉と変わんねぇけどな。見た目も雰囲気も」

「……は?小野、それバカにしてんの?」

佐倉の眉がぴくりと跳ねた。すると、横から須藤が茶々を入れる。


「ひよりと白鷺が同レベルって……それはさすがにムリあるでしょ?」

「お前が言うな、朱里!!」

佐倉が即座にツッコみ、テーブルが軽くどよめいた。


「でもさ、実際白鷺さんって何考えてんのか、よく分かんないよね。いつも一人で、どこか浮いてる感じ」

太田がぽつりと言うと、湊は少し間を置いて言った。


 「……まあ、確かに。ちょっと悩んでる感じはあるかもな」

「だよね、わかる~。あれは絶対なんかあるって」


「でもさ、いま白鷺さんと一番仲いいの、小野くんじゃん? だったらさ、さっさと付き合っちゃえば?」

須藤が茶化すように言うと、湊は苦笑しながら答えた。


 「……大きなお世話だって」

三人の女子はクスクス笑いながら、それでも興味を手放そうとはしなかった。

そんな他愛ない会話が、ガストの席でしばらく続いていた。


第三話 ユリの夢 【人形】


 どこまでも白く、どこまでも静かだった。

風もなく、音もない。ただ、息をしているような、していないような──。

足元はあったかもしれないし、なかったかもしれない。


 そんな場所で、ユリは自分とよく似た誰かと向かい合っていた。


「……ユリ。どうしたの?」

声が届いたような気がして、ユリはゆっくり顔を上げる。

 そこにいたのは、鏡越しに見る自分のような少女。けれど、その瞳はまるで別の深海を映しているようだった。


 「あなたは……誰?」

「わたし。……あなたの、影みたいなもの。

あるいは、夢が形をとった残響……そう言えば分かる?」


 「分からない。わたしは“わたし”よ。白鷺ユリ」

少女──いや、“それ”は微笑むでもなく、ただ無感情に言葉を継いだ。


「あなたはね、願いから生まれたの。忘れ去られた悲しみ、閉じ込められた怒り。

動けない“本当のわたし”の、代わりとして」


 「……それって、どういう……」

「ねえ、ユリ。あなたは何がしたいの?」

 「……それは……」

言葉にしようとするたび、何かが霞のようにこぼれていく。


 「湊くんと、ただ……普通に、過ごしたいだけ。笑って、話して……それだけ」

「それが“本当”? 本当のあなたは、もっと別のものを抱えてる。

冷たい何か。黒く染まった種のような」


 「わたしは、あなたの人形じゃない」


「ふふ……そう言うのは、きっと“人形”だけ」

足元から、ゆっくりとひび割れが広がっていく。

夢が崩れていくのか、現実に還る合図なのか。


「復讐の記憶が、近づいてる。

あなたは選ぶことになる。血を流すか、手を伸ばすか」

ユリは叫ぼうとした。けれど、口が動かなかった。


 そして、少女──由梨は、白の空間にふっと溶けた。

「……夢、だったの?」

まぶたを開けたユリは、湿ったシーツの感触に気づいた。

汗がじっとりと背中を濡らしていた。


 部屋は静かで、夜はまだ終わっていない。

けれど心のどこかでは、何かが、静かに始まってしまった気がしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る