第四章 土曜日

第四章 土曜日


第一話 映画のあと


 映画館を出たユリと湊は、駅前のドトールに入った。

 注文したアイスコーヒーを前に、ふたりはテーブル越しに向き合っている。


「なんか、ちょっと微妙だったかな。大丈夫だった?」

 湊がストローをかじりながら訊いてきた。


「うん。ホラー映画、初めて観たから、ちょっとね」

「ごめん!やっぱ《鬼殺の唄》にしとけばよかったよな。アニメだけどさ」


「ううん。面白かったよ。ただ…怖かっただけ」

「そっか。なら、よかった」

取り留めのない会話が続く。


 店内にはジャズが流れ、隣のテーブルの笑い声が、ふと耳に入ってくる。

――こんな時間を過ごしていて、いいのだろうか。

 ユリの中に、かすかな違和感が芽生えていた。

映画を見て、笑って、コーヒーを飲んで…。


 その一方で、胸の奥に冷たい声がささやく。 


 ――あの男を捜すべきじゃないのか?

 ――私は、なぜここにいる?

 ――あの男は、誰? 私の目的は……


「ねえ、聞いてる?」

「ん? ごめん。ちょっとぼーっとしてた」

 湊が眉をしかめて言う。


「白鷺って、よくぼーっとしてるよな。授業中とかもさ。心配になるっていうか」

「そんなにかな?」

「うん。なんか…見えないところにいる感じがする」

 ユリは曖昧に笑った。


「悩み事あるなら、聞くよ?」

「ううん、大丈夫。そんなの、ないから」

「そう?」

ふたりのあいだに、しばし沈黙が流れた。


 氷が解けて薄くなったコーヒーを湊がひと口すすり、ぽつりと呟いた。


「じゃあさ、俺の悩み聞いてくれる?」

「うん、いいよ」

 また沈黙。

 湊は言いかけて、ふと目を伏せた。


「……やっぱ、いいや。やめとく」

「え? なんで? 聞くよ?」

「ううん。白鷺ってさ、話しやすいんだよ。だから、なんか…甘えそうになる。危ないなって思った」

「甘えていいのに」

「いや……まだ、そんな関係じゃないだろ」


 そう言って、湊はそれ以上何も言わなかった。

 ユリもそれ以上は聞かなかった。

窓の外には、いつの間にか夕暮れの色が滲んでいた。

 ふたりは黙ってコーヒーを飲み干し、静かに席を立った。


 帰り道、交わす言葉は少なかったが、その沈黙はどこか居心地がよかった。


第二話 ユリの夢 【男の顔】


 ユリは夢を見ていた。

ぬるりとした暗闇の中、男がこちらを見ていた。

 あの顔。あの笑い。

吐き気を誘うような、作り物めいた笑顔。


「おい、由梨。また俺に逆らったな。お仕置きされるって分かっててやったのか? ん? それとも――お仕置きされたいから逆らったのか?」

 声がぬめりを持って耳にまとわりつく。


 (こないで。やめて……)


 男はシャツのボタンを外し、ゆっくりと脱いだ。

 不自然なほど滑らかに、裸の上半身が露わになる。


 次の瞬間、視界がぶれた。

強く頬を殴られる感触。鼻の奥に鉄の味。

血が、温かい線になって唇を伝う。


 (いや……いや……やめて……)


 体が床に押し倒され、腕が痺れる。

目の前に、男の顔。

吐息すら感じるほど近い、わずか10センチの距離。


 (来ないで……お願い……)


 髪をつかまれ、首が引きちぎれそうに引かれる。

声にならない叫びが喉に詰まる。

助けはどこにもなかった。

 けれど、そのときふと、ユリは“そこ”にいなかった。

夢の中の由梨――血を流し、暴力に晒される少女。


 それを、どこか遠くの高台から見下ろすように、ユリは見ていた。


 (あれは……私じゃない。あれは……)


 痛みを感じなかった。悲鳴も、涙も、どこか他人事のようだった。


 (あれは人形。ただの人形。

  私は、ユリ。由梨じゃない。

  だから、痛くない。傷つかない。)


 そう繰り返しながら、ユリは意識の奥に沈んでいった。

 男の声はいつまでも耳の奥にへばりついていたが、

その意味はもう、彼女には届かなかった。

夢はやがて、音も色も温度もなくなり、

ゆっくりと、白んだ霧の中に消えていった。


第三話 五限目:化学


「……そこで電子が移動するんだ。ここが今日のポイントだからな」


 佐々木先生の声はいつも明るく、板書も図解もわかりやすい。だからこそ、少しでも気を抜くと目立ってしまう。


「おい、郷田。寝るのは放課後にしてくれよ」

 教室の後ろで頭を揺らしていた郷田が、びくっとして顔を上げた。

 「……すいません」


 周囲にくすりと笑いが漏れる。佐々木は黒板の化学式を指しながら言った。

「じゃあ、小野、これはどうだ?」

いきなり名を呼ばれ、湊は背筋を伸ばす。


 「えっ、あの……その……」

目が泳ぐ。黒板の構造式がまるで異世界語のように見える。


 「おまえも、郷田と一緒に夢の中だったのか?」

 「いや、起きてましたけど……」


 「じゃあ、隣の白鷺はどうかな?」

問いかけに、ユリは特に迷いもなく答えた。


 「酸化還元反応です。亜鉛が電子を放出して酸化し、銅イオンがそれを受け取って還元されます」

教室が静まりかえる。


 佐々木は満足そうに笑ってうなずいた。

「さすが白鷺。みんな、ちょっとは見習えよー」

 冗談めかした口調にクラスが和やかになる。

 湊がそっとユリの横顔を見ると、ユリもちらりと湊を見て、微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る