第42話「その傷、どうしたんですか……?」

* * *


 早朝──まだ日が昇りきらぬというのに、《Chaosカオス》の領土内は未曾有の騒乱に包まれていた。


 城塞の前には、衛士からの召集を受けたギルド民が大挙して集結している。


 反乱でもストライキでもなく、ただ『ギルドマスターから重大な報告がある』という触れ込みだけで、誰もが浮き足立つほどの緊張が漲っていた。


 その群集の中には、当然ながらエウリアの姿もあった。


 周囲のざわめきに耳を澄ませば、何か大きな転機が訪れるのでは、と人々が少なからず期待しているのがわかる。


 なにしろ、《Chaosカオス》ではギルドマスターの一言が、天国と地獄を一瞬でひっくり返すほどの影響力を持つ。そのため衛士を含めたすべてのギルド民が、気もそぞろに首を長くして時を待っていた。


 やがて、皆が待ちくたびれ始めた頃、城のバルコニーに当の張本人が姿を現した。灰色の長髪を束ね、片手を高々と差し出して声を上げる。


「諸君、よく集まってくれた」


 ナルの一声で、群衆は一気に沸き立った。「ナル様!」「ナル様!」と、まるで神が現れたかのような熱狂的な歓声が飛び交う。


 そんな沸き立つ空気の中、彼の陰に隠れるようにして一人の少女が佇んでいることに、人々は次第に気づき始めた。


 彼女はギルドのサブマスターを示す白銀のティアラを額に戴き、豪奢なウェディングドレスに身を包んでいる。薄いヴェールに遮られて表情がわかりづらいが、彼女が見慣れぬ存在であることだけは確か――だが、エウリアにはその正体がわかった。


 多くの者がどよめくのも無理はない。


 何しろ、他人をまったく信用せず、衛士や召使いにさえ心を閉ざしてきたギルドマスターが、まさか嫁を迎えるなど想像すらできなかったからだ。ナルが女性を傍に置いていたという記憶は、ギルド民の意識から遠い昔に消えていた。


 ところが、いま目の前に立っている少女は純白のドレス、しかも婚儀の衣装に身を包んでいる。


 群衆の動揺が頂点に達しかけたところで、ナルがゆっくり口を開いた。


「こんな早朝に呼び出してすまない。だが、諸君らにどうしても伝えねばならないことがある。すでに感づいている者もいるだろうが、私の隣にいるこの女、ミストラルを我が妃に、そしてこのギルドのサブマスターとして迎え入れることにした」


 ヴェールをかき上げられるようにして、ミストラルは民衆の前に素顔をさらす。彼女のトレードマークである眼鏡は掛けておらず、代わりに制服の内ポケットに忍ばせていたコンタクトレンズを使用しているようだった。その瞳はどこか虚ろだ。


 突如として告げられた報告に、広場は一瞬の静寂に沈む。しかしすぐさま、割れんばかりの叫びとざわめきが湧き上がった。


 ギルド民にとって、マスターの婚礼は喜ばしい出来事でしかない。


 虐げられた生活を送ることの多い《Chaosカオス》の民であっても、ナルは神のごとく崇拝されている存在だ。ここまでの興奮ぶりは当然といえよう。


 さらに、人を寄せつけない冷厳なマスターが結婚するという事実は、ひとつの希望でもあった。もしかすると、かつてのような時代に戻るのではないか──そんな期待感が、民衆の胸を躍らせる。


 狂喜に沸く群衆を前に、ナルはそっと隣の少女に視線を向け、小声で問いかける。


「どうした? 浮かない顔をしているね」


 微かに聞こえた声に、ミストラルは反応した。焦点の定まらぬ視界で何とか男の顔を捉えると、その頬骨付近に切り傷のようなものを見つける。


「あれ……その傷、どうしたんですか……?」


 ナルは少しだけ眉を動かし、自分の頬に触れた。そこには血が滲むでもなく、薄皮だけを切ったような不思議な傷がある。しかし、まったく身に覚えはない。


「これは……なんだろうな。気にしなくていい。寝ている間にでも引っかいたか、擦ったかしてしまったのだろう。心遣いに感謝するよ」


 そうは言うが、ミストラルはその痕が生活の延長でできたようには見えなかった。まるで刃物で切られたような鋭利な一線。


(どんな攻撃もあの〝ねじれ〟で防いでいたし、次元移動してからはなおさら……一体、どうやって……?)


 彼女の疑問をよそに、ギルド民の祝福ムードが一段落したのを見計らい、ナルは続ける。


「皆の祝福に感謝する。結婚の儀は本日中に執り行う予定だ。だが、その前にひとつ、大きな問題がある。聞いてほしい」


 群衆が再び息を呑む。


 その言葉を、ミストラルは聞き逃さなかった。


「えっ、話が違います! 今日は皆への紹介だけで、私が本当に納得するまで結婚は待ってくれるって……!」


 半ば放心状態から意識を取り戻し、ナルの袖を強く引っ張りながら、抗議の声を上げる。


調

「そ、それは……」


 反論が出ない。あの日、あの場でミストラルがナルに付き従うと決めたのは、決して自分の意志を捨てたわけではない。諦めたわけでも、ましてや自己犠牲でもなかった。


 応急処置を施せば、トウヤは命を落とすことはないはず。時間さえ稼げば、後から《時の旅団》が駆けつけてくれるに違いない。


 そう信じていたからこそである。


 彼が再び動けるようになってからでも、ギルドの皆が揃ったあとでも、腕がくっついてからでもいい。いつか必ず助けに来てくれる、と。


 しかし、それをナルは見抜いていたのだ。


 絶句するミストラルをよそに、ナルは群衆へ向き直り、高らかに宣言した。


「このミストラルを略奪しようと目論む者がいる。恐らく、この結婚を阻止しに来るだろう。だが私は、つつがなく結婚の儀を済ませたいと思っている。そこでだ。諸君の力を集結し、その者の思惑を食い止めてはくれないだろうか。誰でもかまわない。それを成し遂げた暁には、そなたに栄誉と一生尽きることのない富を与えよう!」


 ナルの言葉を合図に、衛士も含め数千の民が同時に大声で雄叫びを上げた。幾重にも重なる声の波は、領土全体の空気を振動させる。


 しかし、当のミストラルはといえば、激しい熱狂とは対照的に、まるで魂が抜け落ちたかのように冷め切った表情をしていた。自分の身に起こっていることが、まるで他人事にしか感じられないのだ。


 そのままの状態で、彼女はナルに手を引かれ、城の奥へと連れ去られていく。


 雑踏の最後尾に視線をやると、遠くで眉をひそめながらこちらを見ているエウリアと、目が合ったような気がした。

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