第36話「鐘の音は響かなかった」
それが――少女の答えだった。
いつも他人の顔色を伺い、空気に流され続けてきた人生。
その延長線上で、今また自分の意志を押し殺してしまう。
雨の降りしきる中、ミストラルの瞳からは光が完全に失せていた。
まるで、あやつり糸を切られた人形のように。
「賢明だな」
ナルは冷酷なまでに無造作に、足をトウヤの顔からどけ、遠ざけるように蹴り飛ばした。
「……っ!」
嗚咽と咳を交えながら、トウヤは苦しそうに呼吸を繰り返した。激しくなった雨水と混ざって、腹部からあふれる血液が小さな赤い川を作っていく。
その双眸はまだ死んでいない。
「ふざ…けるなぁ……!! 勝手に…お前らだけで…まとめるんじゃねぇ……」
まともに発声できないほどの出血にも関わらず、トウヤは地面を無理に押して這いつくばりながら立ち上がろうとする。
がたつく足を無理やり動かし、一歩、また一歩と踏み出すたびに赤い滴が路面を染めていった。
だが、膝が砕けるように折れ、無残にも地面に倒れ込む。
「やめてください、トーヤさん!! それ以上動いたら……死んじゃいます!」
ミストラルは悲痛の叫びをあげながら駆け寄った。降りしきる雨よりも大粒の涙が、彼女の頬を何筋にも伝ってこぼれ落ちる。
「また自分に嘘つくのか……? ミスト…ラル」
トウヤのかすれた声が、胸を突き刺す。
「え……」
「お前の過去に、何があったのか……詳しく知らねえ……けど、お前は変わろうとしてた……だろ……やっと…前に一歩、踏み出してたんじゃないのか……?」
「なんで……そんな……」
話した覚えなどないはずのことを、的確に言い当てられた。心当たりがあるからこそ、ミストラルは言葉に詰まる。
困惑しながら、ただその言葉を受け止めるほかなかった。
「言っただろ……ミストラルの〝心の声〟が…俺に届いてるって……もしかしたら、それが……お前の能力(アーツ)なのかもな……」
トウヤは唇の端を僅かに引き上げる。大量の血を吐いている口元が痙攣しながらも、いつもの調子を装うかのように弱々しい笑みを作った。
それは余裕などまるでない、瀕死の体から絞り出す強がりだった。
「ミストラル……逃げた先に何がある……? また逃げて……お前はどこへ行くんだ……」
「……わ……私は、トーヤさんが思ってくれるほど立派な人間じゃありません……自分の意志が持てない、ただの弱虫なんです……」
「それは……別の世界の、名前もわからねぇ女の子の話だろ……お前は……〝ミストラル〟じゃねえか」
「トーヤさん……」
震える手で、トウヤはミストラルの頬を覆うと、親指で優しく涙を拭い取る。
雨音にかき消されそうなほど小さな声だが、まるで優しく諭すように響いた。
「一秒は、いつだって一秒なんだ……泣いたって、笑ったって……時間は同じように進む。だったら、笑わねぇと……損だぜ…? なのに……なんでお前は、今泣いてるんだ……?」
痙攣する足を立たせた。腹部の傷口から音を立てて血を放出しながらも、全身を奮い立たせる。号泣するミストラルを置いて、かつてナルが立っていた場所へじりじり進んだ。
当然、引きずる足には力はない。
そして、前を向いたまま言った。
「目の前で困ってる女の子を助けないで、何がギルドマスターだ……ここで引いたら……明日から俺は、ギルドのみんなに顔向けできねぇ。だったら、ここで死んだ方がマシだ……!」
「そんな……滅茶苦茶ですよッ!」
「……滅茶苦茶、かもしんねえな……でも……俺はずっと、そうやってきた……諦めて立ち止まるなんて、あり得ねぇ……例え時間が止まっても……俺は止まらねぇんだよ……!!」
雨脚がいよいよ強まり、二人を包み込む水音は、まるで世界全体が泣いているかのように思えた。トウヤの咆哮は雨に打ち消されず、むしろ雨粒を弾き飛ばす勢いで空気を震わせる。
限界を超えた身体が悲鳴を上げるが、彼の気力だけが前へと進ませていた。
再び、空中から〈針剣クロノス〉を引き抜く。
いつものようなしっかりした形状ではない。半透明で、薄く脆く、今にも掻き消えそうだった。
「理解に苦しむな」
「そうかい……! 俺の個別授業は高くつくぜ……!」
苦しげにそう戯けた瞬間、トウヤは声のする方向へ全力で突撃した。
もはや能力(アーツ)を使う余力はない。ただ一度でも、無様でも、抵抗してみせる――
その意地だけで身体を動かしていた。
半透明のクロノスに力を込め、下から豪快に振り上げる。
しかし何かを斬る手応えを感じることはなく、薄い硝子が砕けるように、剣は消え去ってしまった。
「……これで、どうだ」
雨の闇を切り裂くような冷たい声が、すぐ横で響いた。
ナルが二本の指を真上から斜めに下ろす。
食い違った地層のように上下にズレた空間は、即座に復元し、対象の物体を問答無用で切断する。
断空。
偶然にもふらついたことで全身を免れたトウヤは、左腕と〝なにか〟を同時に奪われ、地面に沈む。膨大な血しぶきが雨粒を巻き込み、真紅の花を咲かせた。
ミストラルには、それが、あまりにもゆっくりに見えた。
まるで〈
「トーヤさぁぁぁぁぁぁぁああああああああんっ!!」
絶叫に呼応するかのように、大地が揺れた。
遥か先に位置していたはずのワールドクロックタワーが、断空の余波で亀裂を走らせ、軋むような轟音と共に倒れていく。
雨粒に霞む視界の中、塔がゆっくりと自重に耐えきれず崩壊し、瓦礫の塊が降り注ぐ。
ギルド民の悲鳴が遠巻きに聞こえた。
《時の旅団》の二つの象徴が、いとも容易く、ナルによって奪われたのだ。
雨脚はさらに強まり、血と水が混ざり合う中でただ一つ残るのは、ミストラルの悲鳴。
絶命寸前の
無情にも時刻はちょうど十二時を迎えたが――
その日。
《時の旅団》の歴史の中で初めて、鐘の音は響かなかった。
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