第4話【虹色の境界】

 まだ年若い母親は、生まれて一年の赤ん坊をベビーカーに乗せて押しながら、上の子供とともに雨上がりの町を歩いていた。

 

 雨の降った次の日は、いつもより早めに上の子を幼稚園に連れていく。

 なぜなら、元気盛りの息子は水たまりを見つけると踏まずにはいられない性格をしているからだ。

 歩いて十分もかからない幼稚園までの道のりを、いつもの倍をかけて歩いていくのだ。


 先日おろしたばかりの真新しい青いレインブーツを履いた息子が今日も水たまりの中で跳ねる。

 ぴちぴち、ちゃぷちゃぷ。まるで童謡の歌詞みたいな音を立ててゆっくり進む。

 近くにいるとそのたびに水しぶきが飛んでくるので、母親はいつも数歩前をゆっくり歩いていた。


 幸い、家族が住むのは静かな住宅街で車はほとんど通らない。

 見通しのいい広い道だし、危険な場所だってほとんどない。

 とはいえ、あまり離れすぎると何かあったときが怖いので、大人の足でほんの数歩先を歩くのだ。


「ほら、次の水たまりがあるよ~」

 前を歩きつつ、母親が道の先にできた水たまりを教えると、子供は嬉しそうに駆け寄り踏みしめる。

 そうやって幼稚園まで誘導していくのだ。

 広い水たまりをぴちゃぴちゃと踏み鳴らす我が子を越えて、また道の先に水たまりを探す。



 その時、後ろの息子が不意に声をあげた。


「ねえママ、水たまりに虹があるー!」


 母親は水たまりに虹?と一瞬訝しんだが、すぐに「ああ、油膜のことか」と納得した。

 母親は、自分も子供の頃、あの光る水たまりが不思議でたまらなかったっけと、幼い息子との共通点に思わず笑みがこぼれた。

 それと同時に、自分はそこから妖精の世界に繋がっていると信じていたことも思い出す。


 それにしても、子供のころからずっと不思議に思っていたことがある。

 あの油膜は、全然油と関係がなさそうな場所でもたびたび目撃することがあったのだ。

 特に、アスファルトなどその最たる例だ。

 道にはそんなに油がしみ込んでいるものなのだろうか。

 あの油はいったいどこからやってきたのだろう。



「ママぁ。ここ入ってもいい?」


 息子の言葉に、母親はふっと意識を引き戻された。

 どうやら、息子にとっては虹色だろうが普通の水たまりだろうが関係ないらしい。

「ねえ、入ってもいいー?」

 相変わらずの息子に、可愛いと思う気持ち半分呆れ半分で返事をしようとしたその前に、息子の言葉に追撃された。

「ねえ、ママ。入ってもいいー?」

 間延びした、一定の調子で同じ文言を繰り返す。

「ねえ、入ってもいいー?」

 母親が返事をする間もないまま、息子は何度も何度も矢継ぎ早に同じ質問を繰り返す。


「ねえ、ママ―。入ってもいいー?」


 異様な息子の様子に母親が振り返ると、息子は極彩色の水たまりの前にしゃがみ込んだまま、キラキラと好奇心の抑えきれない目で母親のことをじっと見ていた。

 よほど踏み入れたいのか、時折じれったそうにおしりを浮かせながら、息子は律儀に母の許可を待っていた。

 一瞬あっけにとられたが、そんなに興味があるのかと呆れた笑みが顔に浮かぶ。

 母親は、登園時間を確認するため腕時計を目で確認しながら軽い調子で返事をした。


「いいわよー」






 しかし、それきり音が聞こえない。

 いつもの調子なら、すぐにちゃぷちゃぷと水たまりを踏み鳴らすのに。


 どうしてだろうと顔をあげ、母はひゅっと息をのんだ。


 つい数秒前まで目の前にいた息子の姿がどこにもないのだ。



 いったいどこへ?まさか、一人で道を引き返したの?

 いいや。見通しのいい道には自分とベビーカーに乗った我が子しかいない。

 まだ二けたにも満たない年齢の息子が、この数秒で道の向こうの曲がり角にたどり着けるはずがない。


 それではどこかに隠れているの?

 いいや。道の左右に家はあるものの、その両方に子供では到底登れそうにない柵がついている。


 現実的に考えて、息子の姿が見えなくなることなどありえないのだ。

 それなのに、現に息子がどこにも見当たらない。



 慌てて息子の名前を叫ぶも、返事はない。

 いつもなら、名前を呼ぶとあの可愛らしい声で「はーい!」と返事をしてくれるのに。

 

 途端に、目を離したすきにベビーカーの我が子までいなくなるのではないかという不安に襲われ、咄嗟にまだ赤ん坊の我が子をその腕に抱き上げた。

 

 誰も乗っていないベビーカーはそのままに、今歩いてきた道を半狂乱になりながら引き返す。

 常にない母の姿に、異常を察知した腕の中の赤子が泣き叫ぶ。


 駆け出した母親の足を水たまりが濡らすが、そんなことを気にする余裕はもはやどこにもない。






 母親が通り過ぎた後、先ほどまで確かにあった極彩色の水たまりはその姿を消していた。

 まるで、元からそんなものどこにも存在していなかったかのように。

 そこには、ただただ静かな雨上がりの道が続いていた。

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