第九章 「名前のない未来を、ふたりで」

名前のない暮らし


美月の部屋に通う日が続いたある春の日。

蓮は、小さな紙袋を片手に、彼女のアパートの玄関をノックした。


「はい、おじゃましまーす」

「もはや“おじゃま”じゃないでしょ」

そう笑いながら、美月は蓮を迎える。


彼女の部屋には、蓮の私物が少しずつ増えていた。

歯ブラシ、タオル、仕事用のバッグ、そして美月と選んだペアマグカップ。

名前のない関係は、いつの間にか“家族”に近づいていた。


ある夜、食卓に並んだのは、美月が作ったハンバーグ。

蓮は一口食べてふとつぶやいた。


「……うまい。もうここ、俺の家でもいい?」


美月は目を丸くし、それからふっと笑った。


「今さら? とっくにそのつもりだったよ」


自然な流れで始まった“同棲”は、ふたりにとってひとつの「安心」を意味していた。



二 仕事での転機


同棲を始めて数ヶ月。

蓮は現場管理の仕事に加え、あるプロジェクトチームに抜擢された。


「新しく立ち上げる地域交流施設の設計・運営に関わってみないか?」


上司の声がけだった。

地域の子どもたちが集まり、遊びや学びを共有できる場所を作るという内容だった。


「子どもたちにとって、家じゃない“居場所”が必要なんだ。お前、そういうの…分かるんじゃないか?」


その言葉に、蓮の胸が熱くなった。

施設で過ごした日々、誰にも頼れず眠った夜、自分に居場所がないと感じた時間――すべてが今、この企画の意味を照らしていた。


「やらせてください」

それは、かつての自分へ贈る“希望のバトン”だった。



三 サッカー、ふたたび子どもたちと


そのプロジェクトには、地域スポーツとの連携計画も含まれていた。

ふと蓮が提案した。


「サッカー教室をやれたら、子どもたち、笑うと思うんです」

「お前、できるのか?」

「やってみたいんです。……自分が、救われたように」


施設時代、ボール一つで心がつながったことがあった。

叩かれても、蹴られても、あのときだけは誰もが対等だった。


蓮は、古い友人たちに声をかけ、地元のグラウンドを借り、月に1回の「子どもサッカー体験会」を立ち上げた。

最初は5人だった参加者が、3ヶ月後には30人を超えた。


子どもたちは、ゴールを決めるたびに叫び、転んでも立ち上がった。

「蓮コーチ、また来週ね!」

そんな声に、蓮は笑って応えた。



四 プロポーズの夜


プロジェクトは少しずつ軌道に乗りはじめ、蓮の心にも余白ができた。

その秋の夜、蓮はレストランの静かな個室に美月を招いた。


「今日で、ちょうど一年前だよ。君に初めて“頑張ったね”って言われた日」


テーブルの上に、小さなジュエリーケースが置かれる。


「俺……これからも、いろんなことがあると思う。

でも、逃げずに向き合っていきたい。

その横に、君がいてくれたら――それ以上の幸せはない」


ふるえる手でケースを開けた先にあったのは、小さな指輪。


「美月。俺と、一緒に生きてくれますか?」


美月の目から、涙が一滴、落ちた。


「もちろん。……こちらこそ、ありがとう、蓮くん」

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