婚約者の浮気王子より、冴えないチェリストに恋した公爵令嬢

大井町 鶴(おおいまち つる)

◆第1章 一目惚れ 

冴えない男爵令息に恋をした日

冴えない――


そう思った。


少し先に、黒いシャツに少しぽっちゃりした体つきのチェリストがいる。

彼は広場のステージでチェロを構えて首を揺らしながら楽しそうに弾いていた。


その姿が、なぜか眩しく見えた。


彼の奏でる音も、演奏する姿も、自分の胸の奥をそっと掴んでくる。


(……どうして目が離せないのかしら……)


――少し前。


ルイーズは父と街中の広場にいた。


近くにはオープンカフェがあり、人々が思い思いに時間を過ごしている。

中央の広場にはピアノが置かれ、自由に演奏を楽しむ人の姿で賑わっていた。

ここはメッツォの名所だ。


時折、音楽好きな人が曲をリクエストしている。


(あ、あれは有名な歌劇の曲ね)


「ルイーズ、あのエンジオの曲はいつ聴いても素晴らしいね。哀愁漂うあの感じに胸が締めつけられる」


微笑んで見ていたら父に声をかけられた。


「ええ。三十年ぶりに故郷へ戻って来た男性の人生を描いた作品ですわよね」


父・コルネ公爵から金貨を渡される。


「お前もリクエストしてきたらどうだい?」


帽子に入れるには多すぎる額だけど、父は演奏家を応援しているから、いつも惜しげなく金貨を入れている。


ルイーズは『花束のワルツ』をピアノ演奏者にリクエストした。人気のバレエ曲で、曲が流れると近くにいた少女が踊り出した。


「あら、カワイイ」


演奏が終わると、金貨を帽子の中に入れた。


母が亡くなってから、ルイーズは父とこうして週末の街をよく楽しんでいる。

ルイーズは、幼い頃からバイオリンを習っていてかなりの腕前だ。

屋敷には音楽サロンがあって、父はよく演奏家を招いている。


「おや、あそこでカルテット演奏をやろうとしているね」


父の言葉につられて見ると、四人の男性が演奏の用意をしていた。


ちなみに、カルテットとは弦楽四重奏のことをいう。


彼らはバイオリン二人、ヴィオラ、チェロの組み合わせで、室内楽では最も美しいとされる編成だ。


「どんな演奏をしてくれるのかしら」


期待に目を輝かせると父が言う。


「やはりバイオリンが入ると違うね」

「それはそうですわ。バイオリンは私の専門ですから」

「では今度、我が家のサロンに弦楽カルテットを呼んでみようか」

「お父様は私のことをいつも考えてくれるのね。誰かさんとは違うわ」

「これ、ここでそんなことを言ってはいけないよ」


公爵がそっと口の前に人差し指を立てた。


――カルテットの演奏が始まった。


歌劇の曲だった。チェロの音色が力強く、ステキな演奏だ。


「あれは“劇場の狂人”だね。チェロの音色がいい仕事をしている」


チェロ奏者は、世界に入り込むように首を少し振っていた。


気持ちよさそう――


その時は、それだけ思った。


(嫌味のない入り込み方ね)


チェリストの彼は、黒のシャツとパンツのカジュアルな姿で、少しぽっちゃりしている。


(彼……冴えないわね)


そう思ったのだが、なんだか気になる。


――曲が変わる。


「次はタンゴか」


彼は、身体全体でリズムをとりながら弾いた。親指で弦を弾いたり、楽しそうに音を紡いでいる。


あまりにも楽しそうに美しい音を奏でるものだから、なぜだか目が離せない。


なんでだろうと考える。


すぐに思い当たった。


(……彼のチェロには、私の傷ついた心を包む優しさがあるのね……)


自分の婚約者である王子は浮気をしている。


その事実が自分の胸を重くさせていた。


(だから、惹かれるんだわ)


美しい音は人を裏切らない。


「お父様、あの方たちの演奏はとても素晴らしかったですわね」

「ああ、よかった。気に入ったから今度、彼らを我が家に招こうか?」

「……いえ、それは結構ですわ。ひとまず、金貨を奮発しておきましょう」


従者を通じて金貨を渡すと、彼らがこちらを向いて頭を下げた。


(あ、目が合ってしまう)


とっさに横を向いた。


「ルイーズ?」

「目にゴミが入りましたの」


かすかに芽生えた興味を誰にも知られぬように、そっと微笑んだルイーズだった。

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