黒衣の訪問者

廃墟となった研究所は、巨大な墓場のようだった。


俺自身の、そして、多くの名もなき子供たちの、過去が埋葬された場所。


俺は、中央制御室の床に座り込み、ただ、沈黙したスクリーンを眺めていた。


頭の中は、空っぽだった。


あまりにも巨大すぎる真実に、思考が追いつかない。


俺は、実験動物だった。


ドクター・アオイという狂った科学者に、記憶を弄ばれた、哀れなモルモット。


ユキとの思い出さえ、作られた偽物。


では、俺は何を信じればいい?


何を、憎めばいい?


何のために、生きればいい?


答えは、どこにもなかった。


この薄暗い廃墟の中で、俺は、永遠に過去の亡霊と彷徨い続けるのかもしれない。


その時だった。


コツ、と。


静寂を破る、一つの靴音が、廊下の奥から響いた。


俺は、弾かれたように身構え、銃を握りしめた。


野生化したドローンか?


それとも、この廃棄区画を縄張りにする、スカベンジャーか?


だが、その足音は、迷いも、警戒もなかった。


まっすぐに、この中央制御室へと向かってくる。


まるで、俺がここにいることを、最初から知っていたかのように。


やがて、入り口の闇の中に、一人の男が姿を現した。


息を呑んだ。


黒一色の、完璧なスーツ。


無駄のない、洗練された立ち姿。


そいつは、俺がずっと追い続けてきた、そして、追われ続けてきた、宿敵。


メモリア社の保安部長。


クロウ、その人だった。


彼は、部下を一人も連れていなかった。


たった一人で、この廃墟にやってきたのだ。


その事実は、彼の絶対的な自信を、何よりも雄弁に物語っていた。


「やっと、ここまでたどり着いたか、被験体No.7」


クロウは、静かな、だが、芯のある声で言った。その声には、何の感情も含まれていない。


「君がエヴァの隠しファイルにアクセスした瞬間から、君の居場所はこちらで掴んでいた。君の脳内に埋め込まれたニューラル・ポートは、我々にとっては都合の良いビーコンでね。その顔……どうやら、すべてを思い出したようだな。いや、『理解した』と言うべきか」


彼は、ゆっくりと部屋の中に入ってくると、埃をかぶったコンソールを、懐かしむように指でなぞった。


「ここは、我々の始まりの場所だ。いわば、揺り籠だな」


「お前も……ここの被験者だったのか」


俺は、かすれた声で、ようやくそれだけを言った。


「被験者? ふふ、違うな」


クロウは、初めて、かすかに笑みを浮かべた。


「私は、被験者であり、観測者であり、そして、後継者だ」


彼は、ゆっくりと俺の方を向いた。


初めて、その素顔を、はっきりと見る。


整った、彫刻のような顔立ち。


だが、その瞳は、まるでガラス玉のように、光を反射するだけで、何も映してはいなかった。


「ドクター・アオイは、偉大な夢想家だった。だが、彼のやり方は、あまりにも非効率で、感傷的すぎた。彼は、過去の遺物だよ」


クロウは、まるでゴミでも見るかのような目で、床に散らばった研究資料を一瞥した。


「彼は、記憶を上書きすることで、被験者からトラウマを『取り除こう』とした。だが、それは間違いだ。不要な記憶は、取り除くのではない。『統合』し、より高次の存在へと『進化』させるべきなのだ。それが、プロジェクト・レミニセンスの、真の目的だ」


その瞳が、俺を捉える。


その視線には、憎しみも、侮蔑もなかった。


まるで、出来の悪い作品を、修正しようとする職人のような、冷たい、無機質な光だけがあった。


「あんたは、特別だった、ライア。数多くの失敗作の中で、唯一の成功例だ。だからこそ、私はあんたを泳がせた。社会という、最も複雑な環境下で、あんたという『器』が、どこまで耐えられるのかを、試すためにね」


俺の記憶探偵としての人生も、ユキとの偽りの過去も、すべては、この男が仕組んだ、壮大な実験の一部だったというのか。


「ヤマシロ・ミナたちは、あんたを目覚めさせるための、ただの駒だ。彼女たちの死は、あんたをここまで導くための、必要な犠牲だった」


「……ふざけるな……」


怒りが、腹の底からこみ上げてくる。


俺は、銃を握る手に、力を込めた。


「撃つか? いいだろう。だが、その前に、一つだけ教えてやる」


クロウは、俺の殺意を、まるで意に介していない。


「あんたは、まだ不完全だ。作られた過去に囚われ、偽りの感情に振り回されている。だが、プロジェクトに戻れば、あんたは完成する。すべての記憶は統合され、個というしがらみから解放された、完璧な存在になれる。私は、その手助けをしたいだけだ」


彼は、手を差し伸べてくる。


悪魔の、誘惑。


「さあ、帰ってこい、ライア。我々の揺り籠へ」


その瞬間、俺の頭の中で、何かが、ぷつりと切れた。


怒りでも、絶望でもない。


もっと、静かで、冷たい感情。


「断る」


俺は、引き金に指をかけた。


「俺は、お前たちのオモチャじゃない。たとえ、この記憶が偽物でも、この体は、この心は、俺自身のものだ」


俺の言葉に、クロウの眉が、わずかに動いた。


初めて見せた、驚きのような表情。


「……そうか。残念だ」


彼は、静かに手を下ろした。


「だが、いずれ、あんたは自ら、私の元へ来ることになる。あんたが求める『真実』のすべては、メモリア社の最深部にあるのだから」


そう言うと、クロウは、俺に背を向けた。


何の警戒もせず、ゆっくりと、闇の中へと歩き去っていく。


俺は、撃てなかった。


彼の背中を、ただ、見送ることしかできなかった。


一人残された制御室に、彼の最後の言葉が、不気味に反響していた。


『メモリア社の最深部』。


そうだ。


俺の戦場は、ここじゃない。


すべての元凶。


あの、巨大な塔だ。


俺は、銃を下ろし、固く、拳を握りしめた。


俺は、俺自身でいるために、戦う。


その覚悟が、空っぽだったはずの胸に、小さな、だが、確かな熱を灯していた。

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