作られた過去

俺は、鼠だ。


地下水道の闇の中を、ただひたすらに逃げ惑う、傷ついた鼠。


エヴァは、捕まった。


俺を逃がすために。


俺に、すべてを託して。


彼女が握らせたチップの、硬い感触だけが、この絶望的な現実を俺に突きつけてくる。


あれから何日経ったのか。


時間感覚は、とうに麻痺していた。


スラムの最下層、放棄されたシェルターの片隅で、俺は膝を抱えていた。


無力感が、鉛のように全身にのしかかる。


クロウの部隊。


メモリア社の巨大な陰謀。


俺一人で、何ができる?


エヴァを救い出す?


馬鹿げてる。犬死にするのがオチだ。


リストを公表する?


誰が、俺のような裏社会の探偵の言葉を信じる?


メモリア社は、その強大な権力で、俺をテロリストか何かのでっち上げて、社会的に抹殺するだろう。


もう、終わりだ。


何もかも。


俺は、自嘲の笑みを浮かべた。


結局、俺は7年前から、一歩も前に進めていない。


ユキを失った、あの瓦礫の中から。


……ユキ。


そうだ。


俺には、まだやることがあった。


すべての始まり。


7年前の、あのテロの真相。


被害者たちは、全員、あのテロの生存者だった。


そして、記憶を上書きされていた。


だとしたら、俺は?


俺も、あのテロの生存者だ。


まさか。


そんなはずはない。


俺の記憶は、俺自身のものだ。


ユキとの思い出は、この胸に、確かに……。


疑念が、毒蛇のように鎌首をもたげる。


確かめなければならない。


俺は、最後の気力を振り絞り、携帯端末とダイブ用のヘッドセットを取り出した。


これが、最後のダイブになるかもしれない。


自分の記憶に、探偵として向き合う。


被害者としてではなく、分析者として。


もし、俺の記憶が、偽物だとしたら……。


その時、俺は、俺でいられるのだろうか。


意識が、過去へと飛ぶ。


7年前の、最後の朝。


キッチンで笑う、ユキの姿。


『大丈夫、私がいるから』


彼女の優しい声が、鼓膜を震わせる。


だが、今の俺には、その声が、どこか空虚に響いた。


俺は、感情を切り離し、記憶の細部を徹底的に観察し始める。


まず、窓の外の風景。


あの日、俺たちのアパートから見えていたはずの、古い給水塔が、ない。


代わりに、見たこともないビルが建っている。


おかしい。


次に、部屋の中。


壁にかかっていたはずの、二人で撮った写真。


そのフレームの中が、なぜかぼんやりと霞んで、判別できない。


記憶とは、曖昧なものだ。


細部が抜け落ちていることは、よくある。


だが、これは、そういうレベルの話じゃない。


まるで、舞台の書き割りのように、重要な部分以外が、雑に作られている。


俺は、記憶の中の時間を、テロが起きた夜へと進めた。


セントラルタワーの展望台。


きらめく夜景。


はしゃぐユキ。


俺は、彼女の横顔を、拡大して観察する。


その笑顔に、違和感があった。


よく見ると、口元の動きと、聞こえてくる音声が、コンマ数秒だけ、ズレている。


リップシンクの合っていない、粗悪な映像のようだ。


そして、俺は気づいてしまった。


展望台にいる、他の客たち。


その誰もが、のっぺらぼうのように、個性のない顔をしていることに。


まるで、背景として配置された、エキストラのように。


この世界は、偽物だ。


俺とユキだけを主役にした、精巧な、だが、どこか歪な、作られた舞台だ。


やめろ。


これ以上は、危険だ。


俺の精神が、悲鳴を上げている。


だが、俺は、探偵だ。


真実から、目を逸らすことはできない。


俺は、爆発の瞬間に、意識を集中させた。


轟音。閃光。衝撃波。


すべてが、スローモーションで再生される。


瓦礫の下敷きになった、ユキ。


彼女が、俺に向かって何かを叫んでいる。


『……げて……』


『……生きて……』


その声が、途切れ途切れになる。


そして、その音声の隙間に、別の声が混じっていることに、俺は気づいた。


『……統合、完了……』


冷たい、女の合成音声。


『……被験体、安定……』


知らない、男の声。


エヴァに見せられた、ヤマシロ・ミナの記憶。


あの"ゴースト"の中にあった、断片的な音声と、同じだ。


ああ。


そうか。


俺も、同じだったのか。


俺も、記憶を上書きされた、被験体。


では、俺の、本当の記憶は?


ユキとの思い出は、どこまでが、本物で……。


俺が、絶望に打ちひしがれた、その時。


目の前の、ユキの顔が、ぐにゃりと歪んだ。


彼女の美しい瞳が、溶け落ちる。


肌が、テレビの砂嵐のような、激しいノイズに覆われていく。


それは、ヤマシロ・ミナの記憶で見た、"ゴースト"と、全く同じ姿だった。


俺の愛した女の顔が、意味のないデータの羅列へと、変質していく。


「ああ……ああ……あああああああああっ!」


俺の絶叫が、偽りの世界に木霊した。


信じていた過去が、崩壊する。


俺という人間の、土台そのものが、足元から消えていく。


俺は、誰だ?


ここにいる俺は、一体、何者なんだ?


ノイズの嵐の中で、俺は見た。


一瞬だけ、白衣を着た男の影が、俺を見下ろしているのを。


そして、聞こえた。


『プロジェクト・レミニセンス』


その言葉が、俺の崩壊した精神に、烙印のように刻み込まれた。

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