第1話

 時空を超越した無限の楽園――そこは眩い光と静寂が交錯する聖域だった。

 果てしない蒼穹そうきゅうに浮かぶ宮殿は、雲よりも軽やかに、星よりも輝かしく、チャハヤワティ女神の御座ぎょざとして常住している。

 宮殿の中心、壮麗な玉座にて、女神チャハヤワティが静かに座していた。

 彼女の姿は、優雅な貴婦人そのもの。

 女神がまとう衣は光の粒子のように揺れ、長い髪は夜の帳を織るように流れる。

 彼女の微笑みは、慈悲カルナ叡智ジュニャーナ、そしてほのかな遊び心リーラに満ちていた。


 その左右に、二柱の従者が控えていた。

 左の脇侍、ウィシャカ神は、鋭い目つきと知的な佇まいを備えた神。

 チャハヤワティの「明智ウィディヤ」の具現たる彼は、宝剣を手に、女神の相談役として言葉を紡ぐ。

 その剣は偽りを切り裂く刃、無智を断ち切る光だった。

 対する右の脇侍、アディナタ神は、筋骨隆々の巨躯。

 チャハヤワティの「権力アイシュワリヤ」の具現たる彼は、棍棒を握り、女神の護衛として威風堂々と立つ。

 その棍棒は、混沌を打ち砕き、秩序を築く力の象徴だった。


 神殿の空気は、甘やかな芳しき花の香りと、どこからか流れてくる涼しげで美しい音色で満たされており、チャハヤワティは玉座に身を預け、穏やかに語り始めた。


 「ねえ、ウィシャカ、アディナタ。この楽園も、なかなか悪くはないけれど、少々退屈な気がしない?」


 彼女の声は、絹を滑る水のように柔らかく、しかしその奥には宇宙を動かす確信が潜んでいた。

 ウィシャカは眉を軽く上げ、知的な冷笑を浮かべた。


 「退屈、ですか? 女神よ、貴女の創造したこの世界は、すでに十分すぎるほど騒々しい。人間どもの愚行が、毎日のように私の耳を苛むのですから」


 彼の言葉は、鋭い宝剣のように切り込む。

 ウィシャカの声には、学者が愚者を嘲るような棘があった。

 対して、アディナタは棍棒を肩に担ぎ、豪快に笑い声を上げた。


 「ハッ! ウィシャカの言う通りだ! 人間なんざ、男女問わず欲にまみれた豚どもだ! 汚物と寸分も変わらねえよ」


 その粗野な口調に、チャハヤワティはくすりと笑った。

 彼女の笑みは、まるで子どものいたずらを見つけた母のようだった。


 「まあ、二人ともずいぶん手厳しいのね。でもね、ウィシャカ、アディナタ。人間の魂には、確かに汚れも多くあるけれど、時折、驚くほど美しい光が宿るものなのよ。特に、男女の愛がね……たとえ情欲カーマに始まるものであっても、それが真の愛サティヤ・プレマに昇華されるとき、それはもう、私の心を満たす最高の供犠ヤドニャになるのよ」


 彼女の言葉は、まるで天上の楽曲のように響いた。

 ウィシャカは鼻で笑い、宝剣を軽く振って光を散らした。


 「真の愛サティヤ・プレマ、ですか? 女神よ、貴女はあまりに人間に甘い。強欲ラーガ欺瞞マーヤにまみれた彼らが、そんな高尚な愛を育めるとでも? 私は信じませんね。せいぜい、刹那の快楽に溺れるのが関の山ですよ」


 アディナタもまた、棍棒を地面に叩きつけ、哄笑した。


 「ハハハ! ウィシャカの言う通りだ! 人間の愛なんて、熱病みてえなもんよ、女神様! 燃えて、燃えて、燃え尽きて、灰しか残らねえ! そんなもんが供犠だなんて、冗談もいいとこだぜ」


 二柱の神々の嘲笑に、チャハヤワティは動じなかった。

 彼女はそっと手を上げ、楽園の空に光の糸を紡ぎ出した。

 それは無数の魂の軌跡――人間たちの生と死、喜びと悲しみが織りなすタペストリーだった。

 彼女はそのタペストリーを眺めながら、柔和に、満足げに微笑んだ。


 「フフフ、二人とも、ずいぶん言いたい放題ね。でもね、この世界は私の戯曲ナータカなのよ。舞台も、役者も、すべて私が選ぶ。そして今、私は新しい物語を書き上げようとしているの。主役はね……二人の魂。まだ出会っていない、けれど、互いの光で魂を清め合う運命の男女」


 ウィシャカは目を細め、疑わしげに言った。


 「ほう? それはまた、ずいぶん気取った脚本ですね。で、その主役とやらは、どんな愚か者たちです? またぞろ、欲と虚飾にまみれた人間では?」


 アディナタもまた、棍棒を振り回しながら声を上げた。


 「ハッ!どうせすぐに情欲に溺れて、不幸になるだけだ! 女神よ、そいつらの名前を教えてくれよ! どれだけ早く堕ちるか見とどけてやるよ」


 チャハヤワティは二柱の神々の言葉に、ますます楽しげに笑った。

 彼女は玉座から立ち上がり、お気に入りの手鏡と宝珠を虚空から生じさせた。

 手鏡と宝珠はそれぞれ、二つの魂を映し出す――手鏡にはカルワラの丘で祈るプレマワティ、そして宝珠には東京の夜を見下ろす勇。


 「この娘はプレマワティ。私の慈愛プレマを宿した魂。彼女の心は、汚れを知らず清らか。そしてこの男は勇。傷つき、迷いながらも、密かに真心を隠し持つ魂。二人はまだ出会っていないけれど……私の導きで、必ず交差するわ。そして、その愛はサティヤ・プレマとなって、私に相応しい供犠ヤドニャとなるのよ」


 ウィシャカは冷ややかに笑い、宝剣を鞘に収めた。


 「フフ、随分と自信がおありのようで……しかし女神よ、もしその二人が貴女の言う『真の愛サティヤ・プレマ』を完成させられなかったら……私の手で貴女の戯曲を書き直させてもらいますよ」


 アディナタもまた、棍棒を振り上げ、豪快に叫んだ。


 「ハハハ! いいね、ウィシャカ! 俺も乗った! 女神よ、そいつらが情欲にまみれて沈むのを、俺は高みの見物で楽しませてもらうぜ!」


 チャハヤワティは二柱の挑戦的な言葉に、ただ穏やかに微笑んだ。

 彼女の瞳は、まるで宇宙の深淵を映すように輝き、すべての未来を見据えていた。


 「フフ、いいわ。ウィシャカ、アディナタ。私の戯曲の結末を、じっくり見届けてちょうだい。プレマワティと勇の魂の触れ合いが、どんな光を放つのか……それは、きっとあなたたちを驚かせるわ」


 女神はそう言うと、指を鳴らし、光の糸を紡ぐことのできる機織り機をたちまち目の前に生成し、公女と御曹司の恋路を主題としたタペストリー作りに取り掛かる。

 それはまだ始まっていない物語の予兆――真実の愛サティヤ・プレマが織りなす、壮大な戯曲の第一幕だった……

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