第17話 精霊会議と、再び迫る選択

朝の光は、工房の窓から、まるで水銀の滴のように、冷たく差し込んだ。昨日の祭り衣装の華やかな余韻は、もう薄れ、代わりに、どこか重く、張り詰めた空気が、工房の隅々まで満たし始める。焦げ付いた硫黄の匂いが、微かに鼻腔をくすぐり、空気に漂う不穏な気配が、肌を刺す。リネアは、作業台の上に置かれた、磨き上げたばかりの木製の器に触れた。指先に伝わる感触は、ひんやりと滑らかで、その奥には、微かな不安の波動が宿っているかのようだ。

「リネア様……」

微かな、しかし確かな声が、工房の片隅から響いた。光の精霊、ノアだ。彼の姿は、朝霧の中に佇む幻のように儚く、瞳は、宇宙の深淵を覗き込む星の光。その声は、夜明け前の静寂。彼は、いつも物静かで、精霊たちの中でも特に観察者的な存在だった。

「ノア、どうしたの? みんなも……」

リネアが振り返ると、工房の中には、全ての精霊たちが集まっていた。シルフィーは、不安げに工房の空気を揺らし、イグニスは、窯の炎を、まるで怒りを抑えるかのように、じっと見つめている。アクアは、桶の中の水を、悲しむかのように静かに揺らし、テラは、薬草園の土を、守るかのように抱きしめている。リーファは、工房の柱に縋るように体を巻き付け、ヴォルトは、天井をビリビリと駆け巡っている。闇の精霊アルマは、リネアの足元に、まるで怯える子猫のように身を寄せ、金の精霊オリヴァは、その輝きを失い、鈍く光っている。花の精霊サーシャは、工房の片隅で、枯れかけた花を、悲しげに見つめていた。

彼らの瞳は、皆、不安と、そして、リネアへの深い信頼が入り混じっていた。その視線は、まるで、彼女に何かを訴えかけているかのようだ。

「空が……」

ノアが、ゆっくりと窓の外を指差した。空は、まだ薄い藍色に染まっているが、その中に、昨日の亀裂が、さらに深く、大きく広がっているのが見えた。それは、ガラスにヒビが入る音もなく、ただ、そこに「ある」という異質な感覚。まるで、世界を覆う薄い膜が、今にも引き裂かれんばかりに軋んでいるかのようだ。その亀裂の奥からは、黒い靄が、まるで毒液のように滲み出し、空気を重くしていく。

「このままでは……世界が、闇に飲み込まれますわ」

ノアの声は、静かだったが、その言葉は、リネアの心臓を鷲掴みにする氷の手だった。ズン、と重い痛みが胸を締め付ける。

「リネア様……あなたは、再び“精霊姫”として、あの戦の時代に戻るべきですわ」

ノアの言葉は、まるで、遠い昔の呪文のように、リネアの耳に響いた。その言葉は、彼女の心に、重い鎖のようにのしかかる。精霊姫。それは、彼女が、最も忌み嫌う称号だった。

精霊たちが、次々とリネアに語りかける。

「リネア様……あなたの力が必要ですわ!」

シルフィーの声は、風のように焦燥に満ちていた。

「お前しかいない……!」

イグニスの声は、炎のように熱く、リネアの心を奮い立たせようとする。

「この世界を、救えるのは、あなただけですわ……」

アクアの声は、水のように澄んで、しかし、その中には、深い悲しみが滲んでいた。

「大地が……あなたを求めています……」

テラの声は、大地のように穏やかだが、その中には、切実な願いが込められていた。

「木々が……あなたの帰りを待っていますわ……」

リーファの声は、木々のようにしなやかで、しかし、その中には、深い期待が込められていた。

「あなたの雷が、闇を打ち砕くでしょう!」

ヴォルトの声は、雷のように力強く、リネアの背中を押す。

「リネア様……私を、使ってください……」

アルマの声は、囁くようだったが、その中には、リネアへの深い愛情と、そして、自らを犠牲にしようとする決意が込められていた。

「私の輝きを、世界に示してください!」

オリヴァの声は、輝かしく、しかし、その中には、切迫感が滲んでいた。

「花々が……あなたの光を待っています……」

サーシャの声は、清らかで、澄んでいたが、その中には、深い願いが込められていた。

精霊たちの言葉が、リネアの心に、嵐のように押し寄せた。彼女の心臓が、ドクン、ドクン、と、力強く脈打つ。彼女の指先は、微かに震えている。

(私は……また、あの戦の時代に戻らなければならないの……?)

彼女の脳裏に、かつての戦場の光景が、走馬灯のように駆け巡った。血と硝煙の匂い、兵士たちの悲鳴、そして、精霊たちの暴走。その全てが、彼女の心に、深い傷痕として残っている。

リネアの瞳は、精霊たちをまっすぐに見つめていた。彼らの瞳は、希望の光を宿している。その光は、まるで、暗闇を切り裂く一筋の希望の光。しかし、その光の奥には、彼女自身の過去の罪が、影のように潜んでいる。

(精霊姫……その称号は、私にとって、重い鎖だった……)

彼女の心の中で、その言葉が、何度も、何度も反響する。彼女の指先は、微かに震えている。それは、恐怖の震え。戦場で、彼女の力は、多くの命を奪い、多くのものを破壊した。その罪悪感が、彼女の心を縛り付ける鉄の鎖だった。

(もし、また、誰かを傷つけてしまったら……)

彼女の脳裏に、闇の精霊アルマが暴走し、世界を混沌に陥れた光景が蘇る。あの時、彼女は、アルマを止めることができなかった。彼女の力は、世界を救うこともできるが、同時に、全てを破壊することもできる。その恐れが、彼女の心を縛り付ける鉄の鎖だった。

(私は、ただ、静かに暮らしたかった……)

彼女の心の中で、その言葉が、こだまする。この工房で、彼女は、多くの人々の心を癒してきた。パンの香ばしい匂い、染物の清らかな水、陶器の温かい手触り、薬草の生命の匂い、木の温もり、雷の魔力で動く車椅子の希望、かき氷の冷たさ、花々の甘い香り、そして、家族の絆を繋ぐ料理。その全てが、彼女の心に、温かい光を灯した。

(この手で、何かを生み出す……)

彼女の心の中で、その言葉が、何度も、何度も反響する。戦場で失われた多くのもの。その中で、彼女は、今、目の前の全てを守ろうとしている。それは、まるで、乾いた大地に、一滴の雫が落ち、やがて、その雫が、大きな泉となるかのようだ。

精霊たちの声が、彼女の心に響く。

「リネア様……!」

シルフィーの声は、風のように優しく、彼女の背中を押す。

「お前は、一人ではない」

イグニスの声は、炎のように熱く、彼女の心を奮い立たせる。

「あなたの意志のままに……」

アクアの声は、水のように澄んで、彼女の心を落ち着かせる。

「我らが、共にあります」

テラの声は、大地のように穏やかで、彼女の心を支える。

「恐れることはありませんわ……」

リーファの声は、木々のようにしなやかで、彼女の不安を和らげる。

「私も、あなたと共にある」

ヴォルトの声は、雷のように力強く、彼女の背中を押す。

「リネア様……私を、信じてください……」

アルマの声は、囁くようだったが、その中には、リネアへの深い信頼と、そして、成長した決意が込められていた。

「あなたの輝きを、信じます!」

オリヴァの声は、輝かしく、彼女の心を照らす。

「花々が……あなたを応援しています……」

サーシャの声は、清らかで、澄んでいたが、その中には、深い願いが込められていた。

精霊たちの声が、彼女の心に、温かい光となって染み渡っていく。彼女は、一人ではない。彼らが、いつも彼女の傍らにいる。彼らは、彼女の罪も、弱さも、全てを受け入れてくれている。

(この手で、守る……!)

彼女の心の中で、その言葉が、何度も、何度も反響する。戦場で失われた多くのもの。その中で、彼女は、今、目の前の全てを守ろうとしている。それは、まるで、乾いた大地に、一滴の雫が落ち、やがて、その雫が、大きな泉となるかのようだ。彼女の心は、心の奥底で、二つの流れが激しくぶつかり合う。精霊姫としての宿命と、癒し手としての願い。その二つの流れが、彼女の心を、激しく揺さぶる。

リネアは、ゆっくりと顔を上げた。彼女の瞳は、涙で濡れていたが、その奥には、確かな光が宿っていた。その光は、迷いを断ち切り、新たな決意を固めた、彼女自身の心の光。

「私は……」

リネアの声は、震えていたが、その中には、確かな力強さが込められていた。精霊たちが、息をひそめて、彼女の言葉を待っている。

「私は、“精霊姫”として、戦の時代に戻ることはできません」

その言葉に、精霊たちの間に、微かな動揺が走った。しかし、リネアは、彼らの瞳をまっすぐに見つめ、言葉を続けた。

「私は、“癒す”道を選びたい」

彼女の言葉は、静かだったが、その中には、揺るぎない決意が込められていた。精霊たちは、その言葉に、驚きと、そして、微かな理解の眼差しを向けた。

「私は、この工房で、パンを焼き、染物をし、陶器を作り、薬草を育て、木を削り、雷の魔力で車椅子を作り、かき氷を作り、花を咲かせ、料理を作り、そして、人々の心を癒してきました」

リネアの声は、工房中に響き渡った。彼女の言葉は、まるで、彼女のこれまでの手仕事が、一つ一つ、形になっていくかのよう。

「この手は、もう、誰かを傷つけるための手ではありません。この手は、誰かの心を癒し、誰かの夢を形にするための手です」

彼女の言葉は、精霊たちの心に、深く、深く、染み渡った。彼らの瞳に、微かな光が宿り始める。

「私は、この工房で、この町で、この世界で、癒しの光を灯し続けたい。それが、私の選んだ道です」

リネアの言葉に、精霊たちは、静かに頷いた。彼らの瞳は、リネアの決意を映し出している。彼らは、彼女の選択を、心から尊重しているようだった。

工房の窓から、夕日が差し込み、リネアの顔を、赤く染めた。リネアは、その光景を眺めながら、心の中で静かに誓った。この工房で、これからも、人々の心に、温かい光を灯し続けていこう。そして、迫りくる闇に対し、彼女は、精霊姫としてではなく、癒し手として、新たな形で立ち向かうことを決意した。その選択は、彼女自身の未来を、そして、世界の未来を、大きく変えることになるだろう。


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