はじまりのあと ⑥
「え……どういうこと?」
少しだけ顔色がましになった夏希が問い掛けてくる。
あたしは必死に口元を釣り上げる。
えへらえへら、と笑って見せる。
「もしかしたらあたしさ、結構痛み耐性っていうのかな。それが強いのかも。最近『鬼』になっても、なんかあんまりしんどくないしさ。ほら、ぜんぜん平気」
あたしはその場でぴょんぴょんと跳ねて見せる。
空っぽの内臓がぐわんぐわんと揺れて、あばら骨がぎしぎしと痛んだのをおくびにも出さないよう努める。ぐるり、と喉に上がった小さな吐瀉物をバレないように押し戻すために、ゆっくりとその場で一回転してみせた。
夏希が信じられないものを見るかのように、
「れいちゃん、本気? なんでそんな」
「なんか平気なんだってば。全然大丈夫なの」
脂汗を浮かべながら、えへらと笑う。
「そんな……さすがにそんなの嘘――」
夏希がそうそう言い切る前に、あたしは被せて言った。
「っていうか夏希さ、……れいちゃんって呼ぶの辞めてくれない? いつまであたしのこと子供扱いするの。ちょっと馬鹿にしてる?」
慣れないことだからか、声が裏返りそうになる。
「……あ、ごめん、昔からの癖で……嫌だった? 本当にごめんなさい」
少し傷ついたような顔をする夏希からあたしは目を反らす。乾ききったタイルに目を落とした後、こんなので気にしていては駄目だと思って、もう一度睨みつけてみる。
あたしは自分に言い聞かせる。
「夏希もさあ、もういいよ」
「もういいって、何が――」
「あたしのこと憐れまなくて」
もっと夏希をぐちゃぐちゃに傷つけろ、と。
彼女は酷く虚ろな顔で、あたしを見ていた。
「あ。それともあたしといると、気分が良いとか? こんな惨めなやつの面倒見てると、自分がすごい優しい人みたいで自尊心が満たされるのかな。それって偽善者どころじゃないよ? そんなのビョーキ。すっごい歪んでるでしょ」
考えろ。考えろ。考えろ。
「…………酷いよ。そんな風に考えてたの?」
心を殺す。いや、鬼にする。
そう。いっそあたしは、きちんと鬼に成り果ててしまえば良い。
「――あたりまえじゃん。最近さ、夏希と話すだけでずっと苛々してたんだ。ずうっと昔のこと引きずって、見下してたでしょ。あたしわかってたから。ほんと最悪」
あたしは出来る限り不遜げに睨みつけた。
夏希の方が背が高いから見上げる形になるけれど。
「……れいちゃん」
俯く夏希は、泣きそうな顔で呟く。
「まだわかんない? 目障りだから消えてよ。あたしもうさ、全部どうでもいいの。この場で鬼の手使って、夏希のこと擦り潰してもいい。それとも死にたい?」
夏希の肩が、静かに震えている。
「……れいちゃん」
「……だからさあ! そのちゃん付けをやめろって――!!」
あたしは身体を包み込む倦怠感をずるりと動かす。あたしにしか視えない鬼の手が伸びて、夏希が寄りかかる個室トイレの扉を包みこんで圧縮していく。固いものが擦れ合うような耳障りな音のあと、二年前のあの時と同じように、
ばちゅっ
鬼の諸手が、開かれていく。
細やかな粒子と化したものが、ざざっとタイルに落ちていく。
砂埃が漂う、丸くくり抜かれた個室の壁の前。
夏希は、微動だにしていなかった。
「……れいちゃん。私はここだよ」
そういって、自分の心臓を指し示していた。
あたしは、お腹の底から焦燥が湧き上がってくる。
――駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。このままじゃ。
夏希を怖がらせないといけないのに。
恐れてもらわなくちゃいけないのに。嫌われなくちゃいけないのに。二度と顔を合わせたくないと思わせなくちゃいけないのに。今この場で、徹底的に、二度と修復不可能な程に、あたしたちの仲を終わりにしないといけないのに。
そうしないと。
夏希のことを、助けられないのに。
なのに夏希は、
「酷いよ、――私がその程度の嘘も見抜けないって、思ってた?」
あたしは、もう。
堪えきれなかった。
勝手に喉が震えていって、
「ごめん――ごめんね、酷いこと言って、ごめん――」
『鬼』になる苦痛はここまでずっと我慢してこれたというのに、今あたしを苛む鼻の奥のつんとした痛みに耐えられなかった。強く力を込めている目蓋は勝手に震えて、信じられないくらいの熱さと共に潤んでいく。嗚咽が漏れる。
あたしは、みっともなく、ぼろぼろに泣きだした。
「でもっ――、お願い夏希っ、あたしのことっ、もうっ見捨ててよ……」
誰か一人が地獄に堕ちなくてはいけないのなら。
誰か一人が鬼に成らなくてはいけないのなら。
それは、あたしだけでいいじゃないか。
夏希が連れ添う必要はない。
そうだというのに、
「やだよ」
「どうして!?」
「言ったでしょ。私は、れいちゃんを、裏切らないって」
意志の強いその目元に酷い隈が出来ているのに、夏希は平然と言った。
三好夏希は、そういう人間なのだ。どこまでも善良で。誰よりも真っ直ぐで。こんなにも追い詰められて、恐怖に震えていたって、その正しさを失わない。
「それじゃ、あたしのせいで、夏希に迷惑かかっちゃうじゃん」
「迷惑なんていくらでも掛ければいいよ。私たち、友達なんだから」
死ぬかもしれないというのに。夏希は何を言っているのだろう。
暗闇の住人のあたしが、思わず光の側へと惹かれてしまう。
その身を焦がしていながら、手を伸ばしてしまう。
さっさと鬼に成り果ててしまえば良かったのだ。
他人の尊厳なんて踏みにじってしまえば。
この苦痛を誰かに押し付けてしまえば。
あたしは、どれだけ楽だっただろう。
正しさになんて、憧れなければよかったのだ。
最初から、もっと致命的に間違っておけば――。
でも、もう何もかもが遅すぎる。
あたしは夏希の正しさにあてられて、夏希に嫌われることを恐れて、自ら『鬼』を誰かに押し付けるチャンスを手放し続けてきたから。学園中にあたしたちが『鬼』であることを知られている今、誰に押し付けられるというのだろう。
やがて校舎の中に、予鈴が鳴る。
椅子や机を元の位置に戻そうとする軋音。
幾分かのびのびとした生徒たちが笑い合う声が遠ざかる。
廊下を速歩きする幾つもの上履きの足音。薄まっていくお弁当の入り混じった香り。
「体育館じゃなくて校庭に集合に変更だって」、とどこぞのクラスの委員長が知らせて、それに対して「こんな寒いのに?」と文句言いたげなため息の応酬が起こる。
数多の教室から響いてくる、暖かな生徒たちのざわめき。
それらは波のように校舎を伝って、三階の北の奥のここにまで届いた。
昼休みが終わったのだ。
あたしたちという『鬼』が居ない間の、極めてささやかな自由時間。
それが過ぎ去ってしまったことを、皆が呑気に惜しんでいる。
あたしたちのことなんて、微塵も気にもかけず。
寂しさが際立って、あたしはため息をつく。
冷え切ったこのトイレだけが世界から切り離されているような気がした。誰かが壊したまま直されていない窓が風に揺られてカタカタと鳴る。思いのほかうるさいのは、あたしたちが静かすぎるから。誰も来ないからろくに汚れないし、安っぽい洗剤の香りがずっと残っている。だからといって、居心地がいいわけじゃない。
その乾ききったタイルに、ふいに水滴が落ちた。
ぽたり、ぽたり、と溢れていく涙。
あたしは咽び泣きながら、
「どうして――?」
どうしてあたしたちだけが。
暖かな人の輪から外されて、苦しまなくてはならないのか。
悔しかった。悔しくてならなかった。
学園の平穏とやらのために、どうしてあたしたちの青春を犠牲にしなくちゃならなかったのか。先生も生徒たちも学園の皆が態度で示してきた。お前だけが苦しめ、と。我慢しろ、と。関わってくるな、と。仕方がないからあたしは言う通りにした。あたしには夏希がついていてくれるのだから、耐えなくちゃいけないんだと思った。
苦しんだし、我慢したし、関わらないようにした。
結局あたしは、どこまでいってもいじめられっこだった。
集団の無自覚な悪意を前にして、ただ竦み続けていただけなのだ。
――それでも。
夏希のような正しさを形だけ真似ていれば、
いつか救われると思っていたのだ。
そんな訳ないのに。
どれだけ夏希が正しくたって、その周りの全員が間違っているのであれば、上手くいくわけがないじゃないか。それは散々石田くんの時で思い知ったことだろう。彼にもう少し勇気があれば、と恨んだこともあった。そうすれば皆で平等に平和に『鬼』を回せていたかもしれず、あたしも人殺しにならずに済んだだろう。
でもそれは、所詮は絵空事。
ここしばらく、ずっと予感があった。
あたしの身体は少しずつ、孵化の準備をしている。
長塚玲としてのあたしはもう随分摩耗し、中身はほとんど鬼に変わっている。
この儀式をやり始めたのが誰だか知らないけれど、本来はこんなにも長い間『鬼』を宿す人がいるなんて想定していなかったんじゃないか。もしくはこれこそが、本来の――?
「あのさ。れいちゃん、いいよ。私」
唐突な、夏希の言葉。
「……え、何が?」
「だから、卒業式の日。私が『鬼』をやるから」
卒業するまで鬼だったら、その子は死ぬ。
「ぜ――絶対だめ!!! そしたら夏希が死んじゃうかもじゃん……!」
「あはは、わからないよ? 意外と死なないかもしれないし」
そう言う夏希のその手が震えていることを、あたしは見落とさなかった
「そんなの絶対に許さない。あたしと夏希、死ぬべきだとしたらあたしでしょ!? あたしは誰からも愛されていないし、人だって殺してる!! どっちか犠牲にするならっ」
「――でも、れいちゃんが手を汚したのは、私を助けるためだった」
瞬間、記憶が蘇る。
背後に尖った刃物の先が迫る、無垢な夏希の表情を。
「そうだとしても――でも、あたしは――」
あの頃よりも随分と大人びた夏希は、あの頃から少しも変わらずに真っ直ぐあたしだけを見ていてくれた。まずい、と思う。夏希は意志の強い子だ。ただでさえ頭の良くないあたしが『鬼』を宿して頭の回らない状態で、彼女を説得するなんて出来ない。
このままでは押し切られてしまう。
絶対にそれだけは避けなければならなかった。
「あたしさ――夏希以外の、学園の全ての人間を憎んでるの」
だからこれは、あたしの、一世一代の賭けになるだろう。
こんなこと言っても、夏希は頷く訳がないと思っていた。
だって夏希は真っ直ぐで、格好良くて、素敵な子だから。
「ねえ。夏希」
「なあに、れいちゃん」
「……あたしと一緒に、堕ちてくれる?」
あれだけあたしに正しさを示してくれたのだ。
だから夏希はこんなこと、絶対に断る、はずだった。
「――いいよ。れいちゃんが望むなら、どこまでも」
いとも容易く、その在り方を翻してみせた。
そうして、あたしたちは、あの日、あの時、あの瞬間へと至った。
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