4-2 弓月の苦悩

 弓月のスマホの着信音が鳴った。


『ごめんなさい。少し、外泊します。元気です』


 紗良からだ。弓月は社長室でため息をつく。ちょうど会議でここに来ていた庄司と理子が、顔を上げた。理子が、紫色の眼鏡フレームの下から鋭い視線を投げて来る。


「紗良ちゃんですか?」


 弓月は眉を寄せて理子を見る。会社のIDカードを首から下げた理子が身を乗り出した。


「ていうか、お二人。喧嘩してますよね? 紗良ちゃん、元気なさ過ぎて心配なんですけど? あの子のことだから、そう言ったら却って気を遣って元気な振りするだろうから、私の方ではいつも通り接してますけどね」


 脇から庄司が「それな!」と口を出した。残業時間だからか、今日もまたワイシャツのボタンを3つ開けて、ハンディファンを全開にしている。


「私でもさすがに気づきましたよ、社長。私も、あえて見て見ぬふりしてますけど。なんというか……痛々しくて、紗良ちゃん見てられません。あの子、少し瘦せましたよね。私のあり余る皮下脂肪を分けてあげたいですよ」


 紗良は毎日、元気な振りをして頑張ってくれている。が、庄司と理子にはお見通しだったわけか。2人とも、こう見えて自社のエース社員なだけはある、と妙に感心する弓月だ。


「……お二人には、ご心配をおかけして申し訳ありません」


 二人は「いいえ」と揃って首を振った。理子が言う。


「余計なお世話かもしれませんけど。私達、お二人には幸せになってもらいたいんですよ。だって、紗良ちゃんって、素直で可愛いじゃないですか。どんな仕事でも快く引き受けてくれるし……いつも笑顔でのほほんとしてて、小動物がいるみたい、っていうか。あの子、なんだか不思議な雰囲気ありますよね。彼女がそばにいると、なぜか私、すごく癒されるんですよ。だから彼女、いつもお忙しくてストレスフルな社長とも、相性いいと思うんですよね」


 庄司も「そうそう」と深く頷いた。


「紗良ちゃん、仕事も手際いいし、おじさんの変な話にもニコニコ付き合ってくれるし。実際社長、あの子がここに来てから、ちょっと丸くなりましたよ。態度に余裕が出て来た、っていうか」


「それある。今までの秘書さんの時は、なーんか、いっつもこんな顔してて、今より全然近寄りがたかったですもんね、社長」


 理子は眉を寄せて厳しい顔つきをして言った。確かに、そうかもしれない。紗良のおかげで、自分は、随分変わった気がする……。弓月は椅子に背をもたれ、両手を組んで言った。


「……ええ、そうですね。彼女には、色々と助けてもらっていますよ。まあ、彼女とはあとでゆっくり話してみますので、こちらのことはどうぞご心配なく。……大変申し訳ないですが、彼女は数日お休みさせて頂くかもしれません。もちろん業務上の不都合は出ないようにしますので、ご承知おき下さい」


 2人は「はい、もちろん」と真面目な顔で頷いた。弓月は「ご迷惑をおかけします」と言って資料に目を落とす。だが、沈んだ気分はどうやっても晴れることはなかった。


 翌日、土曜の朝。弓月は、カーテンの隙間から漏れて来る朝陽に顔をしかめ、ぴたりとカーテンを閉める。昨夜は本当に眠りが浅かった。紗良に『分かりました。落ち着いたら連絡下さい。会社の方は、暫くお休みで出しておきます』とだけメッセージを送ったものの、果たしてそれは正しかったのだろうか。どうにか紗良を探し出して、無理にでもここに連れ戻すべきなのか……。


(あの時、紗良にもっと追求すべきだったのか……だが、あんなに泣きじゃくっているあの子を問い詰めるなんて、可哀想でとても……)


 花火の夜。部屋に帰った紗良は、ずっとベッドにこもって泣いていた。弓月は、紗良に問い詰めたい気持ちがある一方で、もしそれで彼女が正直に話してくれたとして、その事実を自分が冷静に受け止めきれるのか、怖くてたまらない気持ちもあった。万が一。紗良の隠している何かが、自分が突然予感したように、彼女を永遠に失うようなものだったとしたら……。


 弓月が頭を抱えてベッドで寝返りを打った時。枕元のスマホの着信音が鳴った。もしかして紗良か、と焦って見てみれば、ディスプレイに表示されていたのは、母親の名前だ。弓月は落胆して再び横たわったが、着信音はいつまでも鳴っている。しつこい。弓月は苛つきを感じながら、通話ボタンを押した。


「……はい」


『あ、伊織? この前は、来てくれてありがとう。お元気にしているかしら?』


 今は、母親の世間話などに付き合っている暇はない。弓月は目を閉じたまま「ええ」と素っ気なく答えた。母親は息子の不機嫌そうな声も気にせず、朗らかに続ける。


『あの子……紗良さん、だったかしら。彼女は、お元気? 可愛らしい奥さんをもらえて幸せだわね、伊織』


 弓月は今度こそ完全に無視する。その紗良のことで、自分は今、頭が一杯だと言うのに。母親は明るい声で続けた。


『あの日ね、お母さん、とてもよく眠れて……すごく気分が良くなったのよ。あんなに幸せな気分は、一体いつ以来だったかしら。あなたたちが来ている間に眠ってしまったみたいで、申し訳ないことをしたけれど。とても幸せな夢を見たわ』


 弓月は目を閉じて横たわったまま、無言で聞いている。母親は夢見るように言った。


『お父様と、初めて会った日の夢。お父様は、旧華族の家柄でいらっしゃるでしょう。お父様は由緒正しい公家の血筋ですから、戦後まで伯爵の地位にいらしたお家柄。でも私は、羽振りはいいとはいえ、ただの商家の娘でしたから……とても緊張していたわ。初めて会った時に、お父様は、私に優しく笑いかけてくれて……お互いに、一目で、恋に落ちたのだったわ。もう何十年も前の話ね』


 だからなんだ。弓月は、既に関係の冷え切った両親の過去話などに興味は無い。だが母親は、続いて意外なことを言った。


『それでね……あなた達が来てくれたあの日。私は、このお部屋を出たのです。そして、お父様に訴えたのよ。あの女の人を、家から追い出して下さい、あなたの妻は、私ですって。そしてあの女の人にも、今すぐここを出て行かなければ殺します、って言ったの』


「……え?」


 弓月は思わず目を開けた。母親が……なんて? 母親は、笑った。


『あの人は出て行ったわ。どうして、今までそうしなかったのかしら? 私は怖かったのね。お父様と本気で言い合いをして、傷つけあって、お互いを壊してしまうのが。でも……誰かと分かりあうためには、言葉を尽くさなくては駄目なのね。相手が心から愛する人ならば、なおさら……。今まで私は、そんな簡単なことから、逃げ回っていたのです。私は、勇気を出して、お父様に私の気持ちを伝えました。そうしたら、お父様は……あの女の人とお別れになったのよ。そして、私達は、もう一度……夫婦として、やり直すことになりました』


 弓月は何と言うべきか分からなかったが、母親は気にもせず、告白を続ける。


『あの日の、あの幸せで安らかな気持ち……うまく言葉では言い表せないのだけれど……それが、私を助けてくれた気がするの。あれは、何だったのかしら』


 弓月は目を閉じる。それは、紗良の不思議な能力のおかげに違いない。あの子の持つ、女神の安らかな眠りを与える力の……。母親は少し間を置いてから、真剣な声で言った。


『伊織。これまでのこと……私達を許して頂戴ね。あなたには、長い間、苦しい思いをさせてしまいました。それで……本当に遅くなりましたが、良かったら近いうちに、紗良さんとご一緒に、うちへお立ち寄り下さい。今更だけれど、お二人のご結婚を、お祝いさせてもらいたいの。これまで酷い家庭で……一人息子の結婚にすら無関心だったこと……酷い両親を、どうか許して下さい』


 弓月は辛うじて「……別に、僕は、何とも」とだけ返した。母親は「お会いできる日を楽しみにしているわ」と言い、電話は切れる。ツー、ツー、という音だけが、ベッドルームに響いていた。弓月はベッドに体を起こして、頭を抱えた。


「なんだよ……知るかよ、そんなこと……」


 ピンポーン。突然、インターホンの音が鳴る。弓月は無視して不機嫌にベッドに倒れ込んだ。が。ピンポーン、ピンポーン……インターホンはいつまでも鳴っている。弓月は珍しく舌打ちをしてモニターに出た。画面に表示された、この顔は。


『おーい! 伊織! いるんだろ? 俺だよ、開けて! もう、お前んちの玄関の前まで来てるからな!!』

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